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海はなぜ好きかと聞かれても           成田守正

  • 2010年9月27日 16:27

海がなぜ好きかと聞かれても

成田守正

流れ藻が岩底にひっかかってできたみたいな小さな島だった。越後の北部沖合三十キロ、江戸時代の北前船が、夕日を背にした島の姿を後光輝く仏の寝姿に似ているとあがめ、立ち寄ったと伝えられる。いずこから来たとも知れない父祖の血脈は、めぐる磯の幸と、林に繁る山菜と、海が吠える日、耳をかたむければ、いつか波の牙が島を根こそぎさらい、神木の澄んだ梢も、谷の陰りも、虫のすだきも、集落も、水の涯へ引き沈めるにちがいないと肝をすえる島民の太い心根で引き継いできた。

梅雨の晴れ間にのぞく陽に小さなかげろうがたつ藪の小道を、貴英は北の岬へ向かう。春の陽ざしに淡い色をつむいだ若葉が、いつしか重堅い緑をまとっている。崖ぎわを茅の葉先をたたきながらたどり、小高い岩丘へ折れる。岩の縁にのっと、古びた潮見櫓が現われる。荒く組んだ石土台、軒の突き出た四角錐の屋根、昭和の時代から潮のさざめきに洗われ、いまは朽ち落ちるさだめに耐え、蜃気楼のようにそびえている。櫓の傍らのくぼ地にはこの季節、石くれの陰に風をよけて、可憐な花房を空に立て雨のしずくをあふれるまで汲む姿から島では銀盃草と呼ぶ、イワナシに似た花のひと群らが咲く。

貴英は戸口のかんぬきを抜き、望楼への中梯子に手足をかける。屋根裏じみた暗がりの、でこぼこに歪んでしまった内板の節穴から、櫓の臓腑をつらぬく長槍のように光の刃が大小いく筋も突き抜けている。虹色をおびた太い一撃が、梯子の途中でもたつく貴英のよく日焼けした頬をおそう。わずらわしげに細めたまなじりの下で、光は岩に砕ける滝水の白さではじけ散る。動じない手足の運びに一瞬むっと、漁師の獣くささがにおい立つ。

貴英は、東と西と南の雨戸をはずして風を通す。夏凪のように無表情をしきつめた海面が、底では緩慢な雲の動きにも感応するとばかり、紺青の濃淡模様をめまぐるしく変化させ、ぎらぎらと日を照り返している。水平線には大型のフェリーが一艘、ゆったりとした航跡の帯をただよわせる。

Tシャツを脱ぎ、木目を粗く骨立たせた手摺りに身をのりだし、裸の上体に明々と太陽を浴びる。大きく深呼吸をする。肩でいっぱいに胸をつりあげ、落とす。大きく吸ってゆっくり吐く。繰り返すなかで目をとじると、体中が洗い清められ、細胞という細胞がひとつ残らずほぐれ、鎮まっていく。そして、確実に、また一体にみなぎる。

「気持ちいい」自然に声が出る。

貴英は、この海が好きだった。

「中はサウナだぜ」倉庫をのぞきこんだ杉男が熱気に当たり、おおげさに顔をのけぞらせる。「なんだってこのくそ暑い日に」

朝の漁を中止に追いやった低気圧は、昼近く、前線を日本海まで引き上げ、晴れ間を開いた。その低気圧の渦へ向かって山脈をかけおりた風がフェーン現象を起こし、島がうだっている。

「文句多いよ、杉男は。さっさと始めんべ、俺が奥の窓を開けてくっから。待ってても風は通らないべ」

健次は大きい体をやおら運んで、中へ消える。窓を一カ所二カ所と開けてまわり、真っ赤な顔で飛び出してくる。汗が水疱のように湧き、つぶれて顎から滴っている。肌に張りついた無地のTシャツに、熊のような胸毛が透けて見える。「すげえ、なんでこんなに蒸れる? 壁や土間に染みた塩が、ぶくぶく噴き出してくるみてえだ。だけど、こんな暑さがつづいてくれるならいいべ。去年みたいに週末ごと雨にたたられ、観光客に見放されるのもきついだで、なあ」

貴英が二人に声をかけたのは、青年部が所持する備品の点検のためだった。海びらきが一週間後に控えている。海水浴客へ貸し出すビニールマット、サーフボード、セールボード、パラソルなど、二台ある水上バイクも、去年から埃をかぶったままだった。

島は漁業で生計をたててきた。むかしはせいぜい一、二トンの磯廻り舟による零細な漁が中心だった。年配者の話では、島ぐるみで中型船を仕立て近海漁業へせめて攻め出ようと図ったこともあったらしいが、石油ショックのあおりで重油が高騰し、実現しなかったという。

世の中がバブルに浮き立った頃、魚価の見込めるタイやヒラメなど高級魚の需要が島にまで寄せてきた。またたくまに小型船のすべてが、百本の仕掛けを持つ延縄船に一変した。よい魚礁をめぐっていさかいが絶えなくなったとき、その果てを案じた漁協と村は、出船の解禁時間を取り決めた。合図のチャイムが鳴ると、港で待機していた船団は、舵輪を握る者たちの雄叫びとともに、いっせいにスタートダッシュをかける。みよしを競い、たてがみをなびかせる白馬さながらの勢いで波を切る光景は、おおげさにいえば毎日の生活をかけた戦いの出陣式だが、部外者の目にはのどかな地方風物詩と映るだろう。

島の経済を支えるもう一本の柱が、夏に集中する観光だった。だがここ数年渡ってくる客ののびが見られない。天候不順の昨年は、手ひどいおもわく外れに終わっていた。

備品のあらかたを日の下へさらし、ライフジャケットの数と具合を確かめた後、ビニールマットの空気もれを調べるためふくらませてみる作業にかかったところへ、役場の裕子が自転車で使いに来た。「村長が来てくれと。青年部長の貴英に」

「なんの用だって、ジイちゃん?」

「組合長と真剣な顔で妙案、名案ひねりあっていたから、またみんなのお嫁さんさがしの作戦ね。なんか浮かんだんじゃないの」

「またかよ、よしてほしいな、もう。ほかに考えることあるだろうが、村で」

「ないわよ。暇もてあましてるもの。それとも過疎化のすすむ島をどうしたら活性化できるか考えろとでもいうわけ? 青年部がぶちあげた島の未来像、日本海の海洋レジャー発信基地をめざし、ヨットハーバーを作るんだっけ、それを検討しろとでもいうわけ、うん、貴英?」

同姓が多いため島では名のほうで呼ぶのがふつうだが、村一番の美人に呼び捨てでにらまれると、淳也の女房とわかっていても下半身がとろけそうになる。この裕子が杉男とできていると知ったら淳也はどうするだろう。杉男は裏の木陰に水上バイクを持ち出し、整備のモーター音を響かせている。血を見るか、と貴英は息をのむ。

「なんか、おかしな格好ね、見てると」蛇腹の空気入れを片足で踏み、パッフーパッフーと音をたててリズムをとる姿が格好よいわけない、裕子は口に手を当てる。

「なに想像してんだ? 似てんだべ、亭主に尻ぶっつけられる時の音にさ」と健次が笑ってあからさまに応じる。「いつ遠洋から帰って来るてが。欲求不満だべ」

「よく言うわ、欲求不満はあんたらでしょ。それを解消してやろうって、村長さんはじめ一生懸命なんじゃない」裕子も臆せずに切り返す。「だいたいだらしないわ。この前は全滅ですって、ほんとに一人も? あれ、全員がどの娘にか必ずラブレター書く決まりだったでしょう。健次はどの娘に書いたの、返事もらえなかったの?」

裕子が蒸し返したのは、五月に村が主催した〃嫁恋い〃キャンペーンのことだ。

「出したよ俺は。滑り止めも合わせれば四人にも出した。返信だって受け取ったさ。一生のよい思い出になりました、皆さまも島の発展のために頑張ってください、とか揃いも揃って肩すかし、よけいなお世話ばかりの中身だったけんど。滑り止めの女なんか追伸まで付けて、優しいお嫁さんが早く見つかるといいですね、だと」

「がっかりしないよう、気をつかってくれたのね、きっと」

「冗談じゃねえべ、やつら、思い出づくりに島に遊びに来たのかってんだ。はっきり言ってブスばっかだったくせに」

「負け惜しみだア、それは」裕子は咎め、健次と貴英をはしゃぐように交互に見た。

〃嫁恋い〃キャンペーンは役場のきもいりで、全国の独身女性によびかけたものだ。ある晩テレビの集団見合い番組を偶然見た祖父で村長の源太郎が、翌日役場へ現われるなりあれだあれだと騒ぎ立て、その計画立案のお鉢が青年部にまわってきた。初めはテレビの猿真似なんかと関心も薄かったが、企画が動きだすと、うまくいけば結婚できる、とげんきんな期待に変わり、さいわい、若い女性十四人の参加が決まった。島側は三十歳以下の独身男性二十八人をえらび、岸壁に垂れ幕や小旗を用意して、未来の花嫁を迎える準備をした。

その日、貴英と杉男は熱烈歓迎のいろどりにと、ボードセーリングでフェリーの前を帆走した。湘南の若者たちと同じといかないまでも、都会からそんなに遅れていない印象を颯爽と演出したつもりだが、波が低すぎて、一週間特訓してせっかくマスターした、空中で一回転してみせる技、ループを披露することはできなかった。

到着してしばらくくつろいでもらった後、小学校の体育館で対面の儀をおこなった。夕方はフリータイムと称して浜辺にテントをはり、篝火をたき、アワビ、サザエ、ウニと、磯料理で精いっぱいもてなし、夜は二人ずつ七軒の家に宿泊してもらった。そこでは家族が島のよさを吹聴し、実際は島での女の役割はかなりあるのだが、楽して暮らせるような話をする手筈だった。

あくる日は参加者全員でサイクリング。島を一周する途中、見晴らしのよい岩磯で役場の人たちが用意したワッパ煮の昼食をとった。ワッパ煮はメバルやカワハギ、タコなど獲れたての魚介を竹串に刺し、流木を使った焚き火であぶる。それを地元の味噌とともに木を曲げて作った器、ワッパに入れて水をそそぐ。焚き火で赤熱させた小石を二個三個と中に落としこみ、瞬時に煮立たせ、ぶつ切りのネギを加える。味噌の香ばしい匂いが浜風に溶けてただよい、これには女たちも喚声を上げた。きそって舌鼓をうち、笑みをあふれさせるその姿に、様子を見にきていた村長源太郎ならずも、島側の関係者はすくなからぬ手応えをおぼえた。

しかし、女たちが午後のフェリーで去り、さっそく各自、心に刻みつけた面影へ向けて書き送ったラブレターへの反応はといえば、無視か冷淡な返事を受け取るばかりだった。やがて破船の残骸は岸壁や居酒屋につぎつぎ流れ着き、誰かいい目を見たとはいっこうに聞こえてこない様子に、おれの返事のほうがひどい、いやおれだって、とまるで自慢しあう始末で、一行には婚約中の女もまじっていたらしい、とまことしやかな噂まで生まれた。なまじ若い娘の体臭を身近で嗅いだぶんの悔しさを、振られた相手の素姓への不信感でまぎらわさずにはおれなかったのだろう。

「民宿の予約はどんな具合かな」貴英は、サドルを跨いだままの裕子の股に目を向けながら訊く。スカートがすこしたくし上がって下半身にはりつき、股の窪みが体の線を集めて艶っぽく見える。そそられて血の潮がさわぎ、あそこに杉男がつっこんでやがるんだ、と嫉妬めいた卑猥な連想が唐突にわき、わくと同時に、そんなことを連想する自分に胸糞が悪くなった。

「集計では、例年なみってとこかな」

「それって釣り客がほとんどだろ? 客がこなきゃこっちは張ったテントでお茶引くだけなのに、なんで海びらきを一週間早めなければならんのかなあ」

「サービスの時代なの。たとえ一人でも一組でも来てくれたら大切にする。それがひいては島の評判を高めることにつながる、とそれが村長の持論。知ってるでしょ? 早めに受け入れ体制を用意、ということでお願いしたわけね」

倉庫の裏のモーター音が消え、「調整、ばっちりやったぜ」とメカには誰よりも強いと自負する杉男が得意げに姿を見せた。裸になった上半身が黒い油の撥ねで汚れている。

「杉男もいたの。ねえ、杉男はどの娘に書いたの?」

いきなり呼びかけられた杉男は、あれっ、と声をもらした。

「〃嫁恋い〃の時に書いたラブレターの相手のことよ」

「ああ」杉男はわざとらしく目をそらして、山積みに投げ出されたオレンジ色の救命具の前で立ちどまる。「俺は出さなかった」

「嘘。それではルール違反。出したんでしょ。どの娘に? 白状しなさい」

「いいじゃねえか、誰にでも。仕事の邪魔しに来たのかよ」杉男は面倒くさそうに見返し、じゃあちょっくら海に浮かべてみっからよ、と貴英に断わって、さっと踵を返した。

「待ちなさい、どういう態度」

汗で褐色にかがやく背中を一瞬楽しげに見送った裕子は、急にむっと頬をふくらませて勢いよくペダルを踏みこむ。追いついた自転車と杉男がもつれて建物の陰に隠れると、健次は、裕子無視されて怒ってやがんの、杉男自転車で轢き殺されとるべ、とうれしそうに言う。健次の鈍さに救われたおもいで貴英は、もっと抑えろよな、と苦虫をかんだ。

山の峰から不意に鴉の鳴き声が聞こえた。雲の流れがまだ猛々しい。最近島に、鴉が増えた気がする。

役場の前庭を小さい熱風が吹きぬけていく。寄り添う手毬のように緑、青紫、紅、と咲きほこった紫陽花が朽ちはじめている。

玄関で、前の青年部長だった国男と出会った。国男は「よう」と手を上げただけで横をすりぬけていったが、一緒に出てきた杉浦土建の杉浦満は駐車場の四輪駆動車に乗りこんだ後、窓から虫酸のはしる猫こびた笑顔とともに、「貴英、ヨットハーバー作ろうな」と一声あびせてきた。庁舎のロビーは冷房が効いていて、裕子が気づいてパソコン画面から顔をそらし、カウンターごしに、村長室の開いたままのドアを顎で示した。

「なんの用だよ、ジイちゃん」

しかつめらしげに天井をにらんでいた源太郎は、孫に呼ばれて、おう来たか、と応接椅子を指さし、自分も席を立った。「ここでは村長と呼べといっとるだろう」

「国男はなにしに来てた。満はまた港の拡張事業計画の件だろう?」

「おまえらが余計なヴィジョンを持ち出してくれたからな」

島の集落は山の表側と裏側、二つの地区に分かれている。言葉や風俗の微妙なちがいから一方は蝦夷、他方は北九州からと、渡ってきた先祖の系統が異なるとの学説がある。二つの集落が対立したことはないが、貴英たちが住む集落の港が、フェリーの着く島の入口となっているのに対し、国男や満の集落には磯廻り舟が出入りできる程度の港しかない。そこでかつて南の岬の灯台建設で味をしめたことのある杉浦は、前回の村長選挙に立候補し、島の活性化のためそちらもフェリーが入れるぐらいに港を整備すると公約、しかし土建屋の腹のうちを見透かされて票にはならなかった。

年頭に貴英ら漁協青年部が、古代には日本海側のほうが表日本だったとの見方にあやかり、「二十一世紀・新日本海文化の時代」と題し、島の未来像を会報で発表した。朝鮮半島、ロシアとも一体の海洋文化が花開き、島は海洋レジャーの一大基地となるという内容だった。港にはヨットハーバーが併設され、バースにヨットが幾艘もマストを林立させている。ハイセンスなリゾートホテル、活魚料理のレストラン、グッズショップ、レストハウス……。遊びの企画だったが、その夢物語に杉浦がくらいついた。裏の港にヨットハーバーの機能も付帯させるとし、日頃の再開発の嘆願をまたかまびすしくさせている。

「わしは自然を最大限残したい、残しながら島を豊かにしていきたいと考えている。無用な開発など望みはせん」

「国男はおとも?」

「いや、国男にはわしが来てもらった。〃嫁恋い〃のとき、こちらの参加者は三十歳以下としたろう、それで三十歳以上の者や親から不満が出たのは知ってるな」

「俺たち青年部で決めたこと、役場の責任ではないよ」

「言い出したのはわしだからな、耳にした不満を率直に報告してもらった。ま、根にもつほどの不協和音ではなかろう。それと次の企画についてちょいと意見を聞いた」

「次のって、マジに?」こんどはいったい何を? 聞く気がおきなかった。

「わしの公約はおぼえてるな、貴英?」

「跡取りに嫁を、だろ」

「おまえはばかばかしいとおもったろうが、ここでの過疎問題は嫁問題に集約できる。山村地では酪農など、仕事の厳しさに収入がともなわない面があって、産業そのものからの撤退や後継者が得られぬとの事情で、過疎が進行している例が多い。くらべて島の漁業はほどほどの収入になっているし、さいわい後継者に悩んでもいない。だが、島には女が絶対的に少ない。女は島から働きに出て、それっきり帰っては来ん、都会の男と結婚してしまう。おまえの小学校のときの同年配で島に残っているのは? 美知子ぐらいか」

「うん、まあ」美知子は国男に嫁いだ。他のは、と貴英は指折り名前をおもい浮かべる。衣子、多恵、曉子、そして翠も島から出たきりだ。衣子と曉子はときどき子連れで帰省してくる。翠は東京の有名な商社に勤務している。

「跡取りに嫁が来なければ、次の世代はない。過疎はとどめえず、やがて老人だけの島になり、すたれてしまう。それだけではない。この日本海の潮の音に迎えられ、潮の香に送られる島の男の一生にとって、嫁取りは唯一の華やぎだ。華やぎこそが人生の、つまりは島の活力だとわしは信じている。その唯一の華やぎを知らずに、何人もが老い錆びようとしている。そんなうら淋しい島にしたくないのだ。時代のせいにして諦めたくない。どこかまちがってるか」

「まちがってないさ」嫁が得られるのなら略奪をもいとわぬとばかりの気合いに、しかたなく相槌をうつ。「で、何をしようと?」

「結婚相談所への登録を推奨しようとおもう。登録にかかる費用を村が援助する。とりあえず来年度からの予算措置を講じるべく検討したい。これなら誰にも平等だ」どうだというように得意げに鼻をなでる。

「おれには何を?」

「青年部で結婚相談所のシステムや費用、もろもろを調べ、信用できる会社を見つけてほしい。登録希望者がどれぐらいいるか、アンケートもとってみてくれ」

そういうことかと貴英はうなずき、しかし嫁問題の解決だけで島の将来は語られるのかと、もやりとした雲が胸をよぎる。会報に発表した島の未来像について自由に意見を出し合ったとき、仲間たちはいきいきしていた。まとめた夢の前でうっとり満足げだった何人かの表情は忘れられない。杉浦土建の思惑にくみするつもりはないが、色とりどりに帆をはためかすヨットの横を高速船やフェリーが入ってくる港の風景は捨てがたい。嫁さがしの手段を弄する前に、女たちにとってもうっとりできる島の魅力をつくることから始めるしかないのではないか、最近貴英はそうも考えるようになっていた。

「東京の女とイッパツやんだべ、いいなあ貴英は。六本木とかでナンパすんだ」

健次はめったに標準語をしゃべらない。だが大きな体躯や卑猥なものいいに反して、根は清廉で、まちがっても淫らに興じるようなまねはしない。海水浴場で監視に出れば、他の係員がいい女の水着の尻を追いかけるのを横目に、所定の場所にどっしりと腰をすえ、春風駘蕩と鼻歌など歌いつつ、役目を怠ることがない。

「そんなんじゃないって。インターネットや電話だけでは詳しくわからねんだ。行って、自分の目で見、話を聞いてみないとな。リストアップした五、六社まわるついでに、東京見物はするがさ。おれは、見境なくそんなことはしないんだよ」

「見境なく、なんだって?」飲みすぎてすこし壊れた呂律で杉男が聞き返す。

「結婚相談所の話だろう」こちらはいくら飲んでも酔わない国男が代わりに答えた。

この夏は猛暑だった。九月に入っても衰えを見せなかったが、盆休みの時期を頂点に前年の不調を補ってあまりあった客足もさすがににぶり、青年部としては活動を打ち上げにした。民宿の座敷を借りOB有志にも加わってもらって慰労会を開いた後、港に浮かぶ貴英の船に一升瓶を持ちこんだ。海の上なら蚊に食われる心配はない。空には黄ばんだ半月が膨らみかけた弦を傾け、星々が宝石の色で雨垂れる。その夜空としょっからが肴だった。

青年部員へのアンケートでは、金銭的な援助が村から受けられるのなら結婚相談所への登録を考えたいという意見が半数近くを占めた。国男が動いたOB独身者対象では、賛成者の比率はいっそう高くなった。

「入会金だけで二十万円が相場、登録料と二年間の活動費を合わせると三十数万円はまずかかる、そう説明した上でこの結果だ。村が援助金を出すにしても、そこまで切実なのかと、再認識させられたおもいだよ」

「見合料とかで女性を紹介してもらうたびにまた一万から三万、まとまればさらに成婚料が十万から十五万円。それより安い所ももちろんある。値段の差はどこでつくのかな」

「海士郎の両親には、金はいくらかかってもいいからよろしく頼むと床に頭をすりつけられた。あそこは年とってから生まれた一人っ子だし、老い先考えると心残りなのだろう。海士郎は仕事の腕は確かだが、世間的な甲斐性という面ではからきしだからな」

「四十歳にはまだなってないですよね」名前のかっこよさに反して、背が低くずんぐりした体形、すでに薄くなった頭髪、訥弁、どちらかというと暗い感じの海士郎……。

「ところで、紹介された女性とはどこで見合するのかな? 東京まで行かなきゃならんのかな。脈があれば一回ではすまんだろうし」

「そこも問題ですね」

持ち寄ったアンケート表を前に、新旧の青年部長は溜息をついた。

今年は騒ぎに振りまわされた、と貴英はひと夏を振り返る。

家業の民宿を手伝っていた高校生の由貴が、心配しないで、とメモを残して家出した。いろいろ聞きこんでみると、宿泊していた大学生グループの一人が由貴を口説いて夜中に岸壁に誘い出していた。その大学生の甘い言葉にのせられたにちがいないと、両親は予約の申し込み者に電話で探りをいれたが、知らないととぼけられたという。話はすぐに広まり、血気盛んな男のあいだでは、そうでなくても少ない若い女を都会の男が奪ったと、まるで由貴が拐かされたかのように、不穏な空気がただよいもした。

貴英は家族に代わって再度申し込み者に電話をいれ、なんのためか仲間をかばう相手を根気よく説き伏せ、連れ出した学生の名前と家の電話番号を聞き出した。すぐに電話をかけ替え、たまたま在宅の父親に事情を説明した。初め父親は、まさか自分の子にかぎって、と信じなかった。しかし、伊豆の別荘にいまは別の友人たちといるはず、といったん切った後の折り返しの電話では声をこわばらせていた。父親はその日のうちに別荘へ車をとばし、息子を容赦なく殴ったという。由貴を諭して車に乗せ、一路日本海側へ出、翌朝のフェリーでみずから送りとどけてきた。監督不行届きだった、と由貴の両親に頭を下げた父親の名刺には、誰もが知っている大会社の取締役の肩書があった。肩書の威力と迅速な対応に尻ごむかたちで両親が謝罪を受け入れると、事はそれで収まったのだが、当の由貴はけろりとしたものだった。洋館のような別荘だった、プレジャーボートに乗った、ベンツで送ってくれたと反省なくはしゃぐ姿に、むしろ島の男たちはコンプレックスをあおられた。由貴は遅かれ早かれ島を出て行くだろうと予想したのは貴英だけではなかったろう。

淳也がマグロ漁の南アフリカ基地から空路帰国してきた。突然で妻の裕子を驚かせたものの、久しぶりに夫婦と九歳の娘全員がそろい、近所に久闊を叙して、仲むつまじく歩いていた。ところが数日たった夕刻、健次が庭の戸口に駆けこんできた。貴英は通り道の縁石を作り替えていた。花壇にはダリアが赤、橙、黄と、燃え盛っていた。

「淳也と裕子が大喧嘩で手におえん。なにがあったんだべ」

貴英は一瞬、杉男とのことがばれたにちがいないと肝が冷えた。淳也は激しい性格で、若い頃、漁師仲間の諍いから相手を半殺しにした前歴をもつ。杉男にとりあえず島から逃げることを勧めようとおもいついたが、満月の春の夜に廃船の陰で重なりあっているのをたまたま盗み見てしまった後ろめたさと、余計な暴露になりかねない先走りへの警戒とで、安易に動くことはできなかった。

ところが、喧嘩の理由はまったく別にあった。観光客のにぎわいにまぎらわせて、淳也が島に女を連れこんでいた。こっそりのつもりだった逢いびきが島の女の目にとまり、裕子に伝わったのだ。裕子のはげしい追及に、女がスリルを味合えるといったからと白状した。パスポートを調べた裕子は、夫がすでに三週間前に帰国していた事実も知った。帰国後女とどこにいたのか、いつからのつきあいか。妻のメンツをこなごなにされた裕子が火山さながらに爆発したとしても、誰もがうなずける話だった。しかしなにがきっかけになるかはわからない。双方の両親も加わって膝をまじえた結果、淳也は女と別れ、この際、遠洋から足をあらって老父の漁船を継ぐことになった。

杉男がその経緯をどのようなおもいで眺めていたかは、このごろの酒の酔いかたを見れば察しがつく。裕子は夫がもう島を出ないと決まって、笑みが絶えない。杉男とは、夫に欠ける若鮎のナイーブさをついばんでみただけとばかり、眼中にもない態度で、貴英はどこかほっとする反面、何なのか裕子のありようにたじろがされる気はした。

海も眠る、と貴英はおもう。夜の潮騒が海の寝息のように聞こえる。その寝息のふところで漁師もまた明日に備えて体を休める。

船上はすっかり口数が減っている。健次は一升瓶を股の間にかかえたまま、いまにも閉じそうな目で舳先に頭を預けている。

「スキューバの客が外国の海に潜ったときに見たっていう話なんだがな」と国男が言う。「仲間の葬式をする魚がいるそうだ」

夏の間だけ国男は、朝の漁を終えてから、同級生の営業するダイビングショップでインストラクターの仕事を手伝う。「ある群れを観察していたら、先頭の一匹がおかしい。ふらふらと平衡が保てない様子なんだそうだ。よく見ると、前後をほかの数匹が励ますように包んで泳いでいる。だけどエラのあおりが弱くなって、とうとう降下し始める。周りは上へ向かえとうながす動きで、しきりに鼻先をかすめるんだが、姿勢は戻らないし、下降も止まらない。二匹だけが介添えみたいにそれを追っていく。だが、ある深さまで行くと、そこでしばらくヒレを振って、訣別の舞いを舞うように旋回して、そのあとでぱっと離れ去った。死神に捕まった魚体は巌のかげの光のない海の底へゆっくりと落ちていったそうだ」

「介添えの二匹は若い魚の代表だな。その深さがその魚にとっての生と死の境界線ということだな」と杉男。

「魚によっては生死を隔てる神聖な深さというのがあるのかもしれないな」貴英は海底に広がる死の世界を想像する。海中に生まれ落ちた魚が生をまっとうし老いて死ぬ。地上の動物にくらべたら、それは奇跡の確率だろう。

「期待してるぞ」杉男がけだるげにまた茶碗を口にはこぶ。

「え、なに?」

「おれだけ結婚できないのは嫌だからな」

「そんなこと、知るか」

「べつに結婚なんかできんでもいいがさ、おれは」健次はやけくそで言っているのではないのかもしれない。

船が二度三度、上下に揺れた。貴英と国男は顔を見合わせる。杉男も身を起こす。うねりについてきた風に、ついいましがたまでとは明らかに違う秋の先駆けが深くにおったからだった。全員が見えない水平線に気配をさぐった。

「上がろう」すくと国男が立ち上がった。

翌週、貴英は東京へ出発した。

にぎわいが切れ目なくつづく東京の街並も一本裏へまわると車の騒音は薄れ、空気のオアシスのように静寂を蓄えた一画がひそむ。

暗がりばかりを選んで小一時間も歩き、貴英はやっと一息つき、居場所を確かめる理性をとりもどした。しかし電柱の住所表示を読んでもホテルの方角は見当がつかない。一難去ってまた一難か、と空をあおいだ。ひしげた月が天蓋の穴のように浮かんでいる。不揃いなビルの形にぎざぎざに縁取られた夜空は、中と縁を逆に見れば夜空にはめこまれた大きな歯車のようだった。その歯車の歯のひとつ、十階建ぐらいのマンションの屋上に人影が見える。あそこへ行けばいま自分がどのあたりにいるかわかるかもしれないと気持ちがうごいた。

古い建物だった。ゆがみの出た鉄の非常階段を足音をころして昇る。昇りながら、昨日今日と遭遇した出来事を振り返り、なんだかわけのわからない情ない気分にとらえられた。おれはいったい何をやっているんだろう……。

前日、上越新幹線で東京駅に降り立つと、その夜にお見合パーティの企画があるという結婚相談所へ、まっすぐ足を向けた。中年の感じのいい女性が応対してくれ、貴英はひととおりの話をした。

「情報の交換、提供は、われわれのサイトとメールで十分に可能です。ただ率直にいって、問題がひとつ」

「はあ、見合する場合は、こちらから出かけて行くしかないと考えています。遠いのはこっちのハンディですから」

「ハンディ? いえ、もっと根本のこと、本人にどれだけ結婚の意志があるか、です」

「それは、みんなあります」

「どうでしょう」唇に疑いの笑みをにじませた。「村や両親よりも、本人がずっと一生懸命だといえますか。周囲の熱心さに甘えて自分は何もしない、嫁に来てくれるなら誰でもよい、では困るんです。紹介する女性は誰も真剣です。自分の人生を賭けています。このような人生を歩みたいと、夢もまじえて考えている。だから、あなたがたにもこのような人生をめざすというのがなければ話にならない。結婚は相性が第一ですが、一方で、未来をどう語り合うかが決め手なのです」

宿泊先にチェックインをすませ、改めてお見合パーティの席で落ち合わせてもらった。会場は新宿にある超高層ホテルの広間。島の者なら建物の豪華さだけで位負けしそうだが、開始にはまだ早い時刻から、おもいおもいな装いの男女が集まってきた。受付に列ができるころには、なにか得体の知れない熱気が立ちこもった。自己紹介、自由会話、と進行するにつれて、貴英はしだいに怖いような気持ちになった。男も女も目が血走っている。貴英の顔をのぞきこんだショートヘアの女が、胸に参加者のリボンがないと気づくと、時間をむだにしたとばかり眉をひそめ、身をひるがえす。いくつかに分かれたグループからグループヘ、茶髪の男が駆け足で渡っていく。〃嫁恋い〃ののどかさ、なごやかさとは、まるで異質の雰囲気だった。

「どうです?」と尋ねられた。

「参加者の意気ごみが凄くて」

「会費が三万円もするから」

「え?」

「こういうパーティは一万二千円とか一万五千円が相場だけど、うちは高くしているの。元を取らなきゃって必死になるでしょ。自分のお金、自腹を切っているからがんばる、それが人間の本性だとつくづくおもうわね」

村が金銭援助するのはあさはかだと批判された気がした。「ここから何組のカップルが生まれるんですか」

「成婚率は一割弱かな。きょうは五十人五十人だから、三組から四組ってところでしょう」

「たったそれだけ、ですか」

貴英は男女の問題は縁なのだと、牧歌的に信じてきた。縁があれば結ばれ、縁がなければ仕方がない……と。村長源太郎とて同じで、だから縁を作ろうと考えたのだ。しかし、結婚相手は、血相を変えてこうして獲得するものだと見せつけられると、なにかしら打ちのめされた。縁を求める以前に持つべき時代感覚があるのか、島の人々にはそれが欠けているのか、いや東京だからこうも欲望がむきだしなのだ、と貴英は頭を混乱させた。

会を辞してのち、地下道を通って山の手線の線路をくぐり、駅の東口に出、植込みの縁に腰を下ろした。テレビ番組で見たことのあるビルの大型スクリーンがめまぐるしく画像を変化させる。ぼんやりしていて、入れ替わり隣りに座る者に注意は向かなかった。

「どこかお具合がよくないのですか?」

一瞬自分が話しかけられたとはおもわなかった。OLふうの女がにこやかに視線をのぞかせていた。

「おれ、ですか? 病気に見えます?」

「顔色が悪いわ。さっきからじっと動かないでいるし。待ち合わせでもなさそうだし」

「そんな……」日に焼けた漁師面がどうすれば青ざめて見えよう。「顔色は地です。暇つぶししてただけです」

「あら、ごめんなさい、失礼申しました。きっとネオンの反射だったのね」

「謝ってもらうことでもないですから」人なつこく笑う女につられて、貴英も照れ笑いを返していた。

「暇なら、私と軽く飲みに行きません? 一緒に行く約束だった友だちから、仕事がどうしてもおわらない、ごめん、ていまになって」と唇をとがらせ、バッグのサイドポケットに差しこんだ携帯電話に手をのばす。「せっかく出てきたのに。このまま帰るの癪だし、ひとりじゃさみしいし、よかったら」

コケティッシュに目を細められ、貴英は断わることができなかった。女の行きつけというスナックバーで、問われるままに島の暮らしや漁、魚のことを話した。女が楽しそうに耳を傾けてくれ、盛り上がって時間を忘れた。意外に安い勘定書に、自分が払うと貴英がいうと、ここは私の店だからと押し問答になり、結局割り勘にした。一区画歩いて出た広い道路の前で女は、貴英を切なげにみつめた。タクシーで帰宅すると一万円近くかかる、いっそホテルに泊まったほうが安い、一緒に泊まってほしい……。「もちろん、割り勘で」駄目押しの笑みをたたえた。この時はじめて、これが週刊誌が書いていた逆ナンパかもしれないと貴英は合点した。

女はホテルに入るとしかし、自分から誘っておきながら、急に恥じらうような態度に変わった。閉じた扉を背にたたずみ、「痩せててちっともおもしろくない体だけど、いい?」と服を脱ぐのをためらうしぐさをする。ベッドで下着になってからも体を固くした。貴英が組み伏すと、「私を捨てない?」とうるんだ目で哀訴する。なんだかよくわからないので「捨てない」といい加減に答え、がむしゃらに体を一つにした。

途中、「私のこと好き?」と薄目で見上げられ、また面食らった。

「うん……」

「どうなの」

「好き」戯れでいいのだろう。

「私もよ」

女は、行為で高まった火照りが冷えかかると、また下腹部を下腹部に押しつけてきて、貴英を眠らせなかった。

朝、服を身に着けてから女は突然泣きはじめた。「私、最初からあなたとこうなりたくて声をかけたの。私、セックスしてないとだめな女なの、病気なの」

「はあ」

「毎晩、誰とでもいいからしないと不安で生きていけないの。だから売春婦みたいなこともする」つらそうに下を向いた。「軽蔑するわよね、こんな女」

「病気だったら、とりあえず仕方ないでしょう」

「やさしいのね。だったら、今夜、また会ってくれる?」上目遣いで見る。

正直、不気味におもえ、ためらいを覚えた。ただ、断わったら、女がもっとわからないことを言い出すような気がした。

「ほんとう? 嬉しい。約束よ」貴英がうなずくと、指切りの格好をした。

「約束だ」指をからめ合った。

女は五時半に会社が終わると言い、「終わったらすぐ電話入れる。お部屋で待ってて」と貴英の宿泊先をたずね、手帳に控えた。別れ際、「着替えに帰る時間はないから、同じ服で出社するしかないなあ。皺くちゃだし、勘ぐられるなあ」とはじかんでみせた。

宿泊先の部屋で一眠りしたあと、結婚相談所をいくつか訪問して説明を聞いた。

ある相談所からは、これからはケータイを使った見合いを充実させるのだと、出会い系サイトとどう違うのかわからない説明を受けた。迷いこんだ顧客を逃がすまいと、情報誌の購読をすすめたり、契約書の束を押しつけてくる所もあった。

夕方、部屋にもどって、女からの電話を待った。待っていると、前夜の快楽の記憶だけがよみがえって、女を不気味におもったことはすっかり忘れた。

しかし五時半を過ぎても、電話のベルは鳴らなかった。六時、七時、八時と、待てど暮らせど音沙汰はない。不意の訪問もなかった。東京の女は嘘つきだった。

捌け口を失った欲望につきうごかされるように、前夜女と出会った場所へ向かった。女の姿はそこにもなかった。がっかりして、どれぐらいか悄然と突っ立っていた。やっと諦めた時こんどは、ミニスカートの二十歳前後の女から声がかかった。髪を一部金色に染め、大きな胸をしていた。

「待ちぼうけ食ったでしょ、もしか」冷やかす口ぶりに愛嬌がにじむ。「きょろきょろして、溜息ついて……。子供にだって察しつく街角の風景じゃん」

「わかる? おたくもそう?」また逆ナンパだと貴英はおもった。

「私はちがうけど。でも、タイプだから、さっきからずうっと見てたんだ」

「タイプってもしかして、おれのこと?」

「うん。私、レイコ。どっか飲みに連れてってよ? 誘って」

「それはいいけど……」

レイコのきびきびした調子にあっさり乗せられていた。人ごみで溢れる繁華街へ向かうレイコに、上京中で知ってる店などないと正直に告げると、どこでもいいじゃん、じゃ、あそこ、と一つの看板を指さした。チェーン店らしく、中は若者で混んでいた。喧騒に閉口して、そこは一時間足らずで退散し、レイコが友だちに紹介され一度行ってみたいとおもつていたというカクテルバーに行くことにした。風俗店の客引きや肌を露出した女の子が群れる一画を抜け、静かな裏の通りへ出て、いかにもバー・ビルといった建物の前でレイコは足をとめた。

「たしかここ。花の名前だったけど。ああ、あれかな、ヒメジオン」

目立たない立て看板の案内にしたがって地下一階へ降り、扉の店名を確認して中に入った。数々の洋酒が並ぶ棚に面して十席ほどのカウンター、ボックスが三つ、照明は薄暗く演出されていた。

「けっこう、いい店じゃん」レイコは貴英に腕をからめて無邪気にはしゃいだ。

カウンターの中のバーテンにボックス席をすすめられた。密着するように並んで座り、貴英はウイスキーを頼み、何杯かおかわりした。レイコはカクテルをいくつか飲み比べした。気がつくと二時間近くがたっていた。腕時計で時刻を示すとレイコは、うん、そろそろ行こう、と意味ありげに目くばせした。

十三万七千二百円と書かれた勘定書に貴英はおもわず手が震えた。

「どうしてこんなになる?」バーテンに説明をもとめる声も知らずかすれた。横からのぞいたレイコはええっと口に手をあて、貴英の背中に隠れた。

「どうしてって、あなたがたが飲んだ代金ですよ、明細をご覧になってください」

「ヘネシー八万円なんて頼んでない」

「うちは会員制で、ウイスキーはボトルで入れていただく決まりなんです。お客さまが特に銘柄を指定しない場合はヘネシーをお出ししております」

「会員制でなんで会員でない人間を店に入れるんだよ。断わりもせず、ボトル開けて。それも常識の値段じゃない」頭にきた。

「酒の値段は店ごとに自由に付けていいんですよ。どこだってそうです」バーテンは鼻で笑い、急に冷たい目になった。

タイミングをはかったように奥の戸口から屈強そうな男が二人現われた。アロハのような派手な模様のシャツを着ていた。「どうかしたか」「このお客さんが金を払いたくないというんです」「なんだと」とにやけた言葉のやりとりのなかで、一人に背後から羽交い絞めされ、一人に胸倉をつかまれた。店にインネンつけるのか、ナメてるのか、と型どおりに威圧を浴びせられた。

「警察に行こう」貴英は抵抗した。

「警察だと。ああ、行けるものなら行ってみろよ」掌底で顎をしごき上げられた。「食い逃げはそっちだろうが。額面きっちり、黙って払って、さっさと帰りな」

「そんな大金、持ち歩くわけないだろう」

「おや、やっとその気になったか。払うってよ」貴英の内ポケットから財布を抜いて、バーテンに放り投げた。バーテンは中身を調べて、とても足りないとばかり渋面をつくり、肩をすくめた。

「あんた、カードは?」

「持ってない。持ってたってこの時間じゃ引き出せない」

「朝になればATMは開くんだよ。家はどこだ?」マニュアルを踏むように次をくりだしてくる。貴英が県名を言うと、「なんだお上りさんね。だったらホテルにもどれば金はあるんじゃないか。どこに泊まってる、うん?」

貴英は咄嗟に前日お見合パーティがあったホテルの名を告げた。ホテルまで二人がついて来ることになり、ともあれレイコともども店の外にやっと出ることができた。

左に付いたアロハ男が貴英のベルトの背中側を握った。レイコが右腕にしっかりすがって、こんなことになってごめんね、友だちに聞いた店じゃなかったのかな、まちがっちゃったのかな、とすまなそうに言いつづけた。

交差点で靴紐をわざと踏み、つんのめった。アロハ男は一瞬気色ばんだが、ほどけきった靴紐を見て、仕方ないと貴英が屈むのを許した。ベルトから男が手を離した瞬間にすかさず紐を結び、立ち上がりざま、アッパーカットをみまい、返しで、もう一方の男にフックを浴びせた。いずれも手応えがあり、男二人は蛙のようなつぶれた声をもらし、路上に崩れた。レイコを引きずるように逃げ出したが、一緒では捕まると直感した。

「そっちへ逃げろ。さよならだ。きょうはサンキュー。おれはあっちに逃げるから」

そう叫び、交差点に舞い戻った。二人のアロハは立ち上がっていた。走り寄る貴英に、あわててぎょっと身がまえたが、眉は怒りと憎しみで吊り上がっていた。

貴英はかまわず突進した。ぶつかる寸前諸手に突き、それが一人の喉を直撃した。もう一人とは組み合いになった。しかし漁師の腕力でおもいきり掬い飛ばし、頭に蹴りを加えた。顔面にヒップドロップして屁をかました。相手が立ち上がれないのを確かめ、あとはやみくもに走った。振りきったと確信してからも、早足をしばらくゆるめなかった。

非常階段の尽きたフロアで、屋上への通路をさがす。扉が開け放たれたままなのだろう、月明かりが差しこぼれている狭い階段があった。扉の口からのぞく屋上は、額縁に納まった枯山水の庭のようだった。雨風に打たれてきただろうコンクリートの床面が、島の港の岸壁に見え、断ち落ちる向こうに海がつづくようにおもえた。

屋上に一歩出る。十二夜か、十三夜かの月。はかなげな光の静寂。都会の深夜なのにどこかで蜩が鳴いていた。手すりの黒い塊りが不意にほぐれ、伸びていた影法師が大きくゆれる。そうだ人影を見てここをめざしたのだった、不審者として詰問されたらどうしようと、後ろ暗い気持ちがわく。「あら」と息を飲む声がしじまを破る。

「なによ。……貴英なの? どうしたの。どうして、ここにいるの?」

逆光でも、女のたたずまいに見覚えはある。声はなおさら。

「おまえ、翠……か」

車の遠い騒音が、磯辺の引き波にあらがう砂の音に聞こえた。

この秋初めて彼岸花を見た。玄関の花瓶に三本、活けてあった。

部屋は1LDK、マンションの二階だった。翠とは幼馴染みで、高校卒業まで一緒に遊び、共に学んだ。ものごころつく以前は、翠がお姫さまで貴英が家来みたいだとよく噂になったというから、三つ子の魂は治らないのだろう、成人してからも翠に頭の上がらない感覚はなぜか消えない。

「ぼったくりに引っかかったなんて、貴英らしい」翠はひとしきり大笑いした。「私の所に逃げこんできた偶然も、ね」

「向こうもうまく逃げてればいいけど。捕まったらきっと、ひどい目に合わされる」レイコのことが心配だった。

「グルに決まってるじゃない、彼女も。なに寝ぼけたこと言ってるのよ」

瞬時、貴英の天地が一回転した。「だって、謝って、おれの腕にしがみついて……」

「カモが逃げないように、でしょ」

小学校中学校は島にあるが、対岸の市の高校へは寄宿舎に入って通う。貴英が漁師の家を継ぐために島へもどったのにたいし、翠は東京の女子大へ進学し、大手の商社に就職した。勤めのせいで翠の帰省は盆と正月ぐらいだが、ここ二年ほどは貴英に雑用が多いせいで、ゆっくり話しこむ機会はなく過ぎていた。

「それで、財布のお金はぜんぶ取られちゃったの?」やかんの火を止めながら振り向く。からっぽにされた財布を逆さに振ってみせると、「でも、じゃ、どうやってホテルに……まさか歩いて?」

「ほかに方法はないだろ。だけどホテルの方角がわからなくて」

翠はまた大笑いした。「交番さがすぐらいの知恵、はたらかせなさい。ごめん、お茶が切れちゃった」茶筒をのぞいてそれさえおかしいというように口に手をあてる。「どうせならビール飲もうか。酒も売ってるコンビニが近くにあるから。帰りのタクシー代は私が出してあげる。ちょっと留守番、頼むわね」

わざわざ買いに行くことはないと遠慮する貴英をしりめに、翠はサンダルをひっかけて出て行った。急に屋内がしんとひそまり、貴英はなんとなく身の置き所に困った。トルコ絨毯が敷かれたフローリングの部屋は、窓際に化粧台と肩肘のしゃれた机が置かれ、机にはマックのパソコンが一台載っている。背の低い箪笥の上にはミニコンポとファクス電話機。テレビを納めた四段のラック。瀟洒な家具のささやかな彩りのように、アンティークな人形と民芸品が並べられている。ベッドには草花を織りこんだ紋様のカバーが皺もなく掛かっている。

翠は島で二番目に大きな民宿を営む家の一人娘だった。父親は内地から婿入りした会計士と税理士の資格をもつ人で、島では重宝な存在だが、舅が他界した時点で漁師の部分は廃業した。郷土史や考古学とかに入れこみ、島いちばんのインテリでもある。ただそのインテリぶりのせいかはどうか、翠にはウマが合わない面があるらしく、「PTAの集会でまたどうせ受け売りの教育論をぶったらしいのよ。親が偉そうなことを言う子供の身にもなってほしいわ。窮屈ったらありゃしない。島の人をどこかで馬鹿にしているのよ。所詮あの人はよそ者だから」と口をとがらせ、貴英を驚かせることもあった。

翠は、小さいときから負けるのが嫌いだった。小学校低学年のころ、何人かで海岸に宝さがしに出かけた。ほかの者がきれいな石やガラス片しか見つけられなかったのにたいし、翠と貴英はそれぞれ珊瑚を拾った。制限時間がきて比べ合った結果、鮮やかな桜色をした翠の珊瑚が一番に決まり、貴英の白い珊瑚が二番になった。ところが家へ帰る途中、翠が茫然と立ちつくした。貴英が駆け寄って訊くと、ズボンのポケットに穴が開いていて、さっきの珊瑚を失くしたとべそをかいた。来た道をもどり、一緒にさがしても発見できなかった。貴英は白い珊瑚をとりだし、これをあげる、と言ってなだめた。しかし「私が失くして貴英が一番になれたのに、なんでくれるの」と受け取らない。あげる、いらない、の押し問答の末に、貴英はそれをわざと手から滑らせた。白い珊瑚は足もとの岩の隙間をアニメの兎のように跳ね、奥へ消えた。あわててかがみこむ背中に、「ほら、こんなことになっちゃう、本当にばかなんだから」と翠の怒った声が落ちてきた。そのくせ立ち上がって正面に向き直った時には、「これじゃ二人とも最初から見つけなかったのと同じだね」とけろりと機嫌が変わって、「せっかく貴英が一番になれたのに」ともう一度つぶやき、慰めの微笑をにっと浮かべた。

高校時代、英語弁論大会の学校代表を争って敗れた翠は、つぎの休日、男子寮にいきなりやってきて、どこへ向かうとも言わず貴英を連れ出した。列車とバスを乗り継いで着いたのは、最寄りのスキー場だった。シーズン外れの誰もいない草の斜面をさらに登り、そこでやっと貴英を座らせた。自分は立ったまま、十五分ほど英語をしゃべった。すこし強めの風が吹き、声が流されてとぎれる部分もあったが、そのよどみなさに貴英はうっとりした。終わってすこしすがめで振り返った翠に盛大な拍手を送った。しかし風にも呑まれたたった一人の拍手は、落選の悲哀をかえってつのらせたかもしれない。

「発音がすばらしい」

「赤点とってる貴英に言われたくない」

「だったらなんでおれに聞かせる」

「どうして落ちたとおもう?」

「ああいうのって、地元の有力者とか卒業生とかとのコネが配慮されるんだよ。地元PTAとの協調ってことで事前に根回しされてんだよ」

「え、そうなの」

口から出まかせだったが、翠が驚くのを見て、自分でもそんなことがあるような気がした。「おれたち島の人間に配慮したって何の見返りもないしな」

「そうだったんだ」うなずきはしても、それで憂さが完全に晴れたとは見えなかった。

翌週、男子全学年によるマラソン大会が開催された。運動神経抜群で前年も優勝の貴英に敵はなかった。しかしこの日のレースでは途中でペースダウンし、二位に入った。

「負けちゃったんだ。悔しいでしょ?」と翠が慰めに来た。

「べつに。勝ったって、この学校だけでの一位だしな」と貴英はうそぶいた。

「そうだよね。実力があるからいつも勝つとはかぎらない。運もあるしね」

翠はふっきれた表情でやっと笑った。

不意に電話が鳴った。ビールを買いに行った翠からかともおもったが、出るわけにはいかない。呼び出し音はすぐに留守電の受信に切り替わった。じっと電話機をにらんでいると、ピーという信号音のあとに、なにかためらっているような、乱れた息づかいの間があった。そして男の声がとびだしてきた。

「私だ……」心の昂ぶりを無理に押し殺しているかの低いかすれ声。「お願いだから、早まったことはしないでくれ。私もつらい。だがこうするしかない、そう決めたんだ……。私が責められるべきは百も承知だ。だから責めるなら、いくらでも私を責めればいい。自分の始末は自分でつけるなんて考えてはだめだ。死んで、どうなる。死ぬなんて、いわないでくれ。死なないでくれ、翠……。頼むよ、翠……」

瞬時、貴英の思考はかなしばりにあって停止した。島の人間以外で、翠を親しげに呼び捨てにする存在の意味を、問うことができなかった。

携帯からだったのだろう、受話器を置く音はなく、いきなり電話はぷつんと切れた。貴英はのんでいた息をはき出した。とんでもない翠の秘密を盗み聞いてしまったと困惑がおそい、だが翠が死ぬとはなんだと、わけもわからず腹が立った。立ったり座ったりを何度も繰り返した。

翠が戻ってきて、玄関口で袋をかざしてみせた。中から冷たそうなアルミ缶を取り出し、「はい、受けとめて」と投げ、貴英があわててキャッチするのを笑って見とどけると、キッチンに寄り、同じ袋の中から乾きものを器に移し替えた。その器を運ぶ目で、電話機を見た。留守電ボタンが赤く点滅している。

「電話、あったんだ」

「う、うん」すこし詰まった。

「誰から、かしら?」貴英の態度のぎごちなさをめざとくとらえ、留守電の声は聞こえるのよねと言い、はっと顔色を変えた。

「機械が勝手に話すから。聞く気はなかったけど……」

貴英の言い訳を無言でおしのけ、翠はボタンを押す。再生が始まると、唇が震えた。眉の根に悶えとも、悦びともつかない曖昧な翳りがはしり、録音が切れた瞬間、どこかしら執着の表情を虚空にさまよわせた。

「この男となにかあったのか」貴英は翠の動揺を憮然と見つめた。「翠によからぬことを仕掛けているならただではおかん」

「あいつ、かけてきたんだ……」

「翠に死ぬなと言っていた」

貴英に顔を向けた。なにかいいがかりをつけるときの視線で唇をとがらせ、が、一転して、こみあげるものを人前から隠すかのように伏し目になり、一度二度と首を縦に振った。「あいつに、捨てられたから、手紙出してやった。……死んでやるって書いて」

「なんのためだよ」翠が失恋した! 翠の思いがけない叫びが貴英の胸をゆらし、荒磯に押し寄せた大波のように盛大にしぶきを上げた。しかし、絶望して死のうとする感情までは想像がいたらない。つい口に出た。「男にはらいせしようってのか?」

「はらいせ?」視線がまた宙を泳ぐ。「そうよ。私が死ねばあいつは一生、私を捨てた罪悪感から逃れられない。あいつの心は永久に私の心と結ばれて離れられない」

「なにをばかな。ほっとするかもしれないぞ、うるさくつきまとわれずにすむって、な。相手が罪悪感を持つ保証なんて、どこにもないだろう?」

「そんなことない、彼はそういう人なの」

「死んだ人間は忘れられていくだけだ」事情はつかめないが、言い負かされる場合ではない。「死んで永久に心が結ばれると本気で考えてるんだったら、どうかしてるぞ」

「私の頭がおかしいって意味、それ? なんにも知らないくせに」

「変は変だ、あの気が強い翠とはまるでおもえん」

「気が強い? ああそう、そう見てたんだ、私のことを、貴英は」

「そんなこと言ってるんじゃなく」にらまれるとひるむ癖が貴英にまた出た。

ところが、喧嘩腰に気持ちが移ってかえって平常の理性に返ったのだろう、急に翠はぺたんと床に正座した。「そうね。私、どうかしてる。どうかしてるよ」

「ごめん」

「さっき、私、飛び下りるつもりで屋上にいたんだ。手紙にそう書いたんだし。でも勇気がなくてなかなかできなかった。そこへ貴英が現われた。私が袋小路に入ると決まって助けてくれるいつもの貴英のようにね。もしあのまま屋上にいたら、私、きっと本当に飛び下りていたよ」瞼にみるみる涙が溢れ、いくつかの玉が頬を伝った。「貴英が来たから、男に捨てられたぐらいで、死なずにすんだ。貴英はきょうは、命の恩人だよね」

「おおげさだよ」

「でもあいつ、電話かけてきたってことは、心配してくれたってことよね。まだ気にかけてるってことよね」

「なにがあったんだよ」

「聞いて、貴英、話すよ。……でも」と翠はまた涙をぼろぼろ落とし、にじり寄って貴英の腕を杖に、自分を支えた。貴英も翠の二の腕をそっとつかみ返した。「いま話すと、もっと取り乱してしまう……。ビール飲もうと言いだしておいて悪いけど、きょうはこのまま一人になりたい、一人にしてほしい。一晩、整理してみるよ……。そのかわり明日、会社が退けたら貴英のホテルを訪ねる。一緒に食事しよう。その時みんな話すから……」上目で哀願する懸命さが、小さいころのべそかき顔をしのばせた。

玄関で靴をはいた貴英は、翠を一人残すことに不安をぬぐえず、半身に振り返った。察しのいい翠は花瓶のそばに立ち、「大丈夫……。死ぬときは私、やっぱり島でがいい。東京なんかでは死なないよ。本当の空も風も星もない東京なんかでは……」と貴英の肩に顔をうずめた。シャツを通して熱いものが滲みてきた。

彼岸花の花弁が夜に溶け、月明かりの大地に零れ落ちる。その赤い雫のうずきを、貴英は掌に汲む。夏が死んで流した、血の絲の花の……。

目覚めたベッドの上で、前日結婚相談所の一つを訪ねた帰りに、最寄り駅前の広場で踊っていた浮浪者をおもい出した。どこで手に入れたか白浪五人男が勢揃いの場で着るような藍地の派手な衣裳、手拭いならぬタオルの頬かぶり、泥で作った白塗りの顔で、カセットレコーダーが流す演歌に合わせ、下手すぎる当て振りを見せていた。異様な大道芸に誰も近寄りがたい様子だったが、物乞い茶碗にはわずかながら小銭が蓄えられてあった。

あの浮浪者にも故郷はあるだろう、とふとおもいがめぐった。しかし故郷があってももう帰ることはできないのかもしれない。故郷を支えに生きる人間と、故郷を捨てて生きることになる人間の違いは何だろう。その境目を決定づける事情、境目にひそむ意識とは何だろう。貴英の島でも、いつしか長く音信が絶えている者も少なくない。そういう出身者にとって自分たちの島は、いつでも遠慮なく帰られる島だろうか。そもそも遠慮なく帰ることができる故郷とは、どんな故郷をいうのだろう。それとも、故郷とは幻想だろうか……。

午前中は、上京後に得ることのできた内容の整理にあてた。村へ経過を報告し、その後、最初に行った相談所をふたたび訪ね、申し込みの手続きや費用などのより具体的な話を聞き、書類の一式を預からせてもらった。団体で入会するケースは前代未聞だが、特別の方法を検討したいと、会社側も前向きな姿勢を示してくれた。街に出た時には夕方近くなっていて、しかしホテルに帰るにはやや半端な時刻だった。

ぶらぶらと皇居のお堀端を歩くうちに、眼前の景色に既視感をおぼえ、ああ、とすぐに記憶がよみがえった。ずいぶん前、商社の池から道路を渡ってお堀へ移動するカルガモの親子が話題をあつめた。警官まで出て車を止め、ヨチヨチと行進する一群をテレビメディアが競って追ったものだった。

カルガモが卵を生む池の商社というのが、翠の会社だった。

「あの行進、まだ続いてる?」

「年中行事だもの。道を渡るとき、警官が車を止めることも。じつは私、池にいる間のカルガモの観察を手伝っているの」

三年前、そんな会話をした。

道路沿いに建ち並ぶビル群に視線をこらすと、前方の一つに、翠の会社名が見えた。近くへ行き、ここが翠の会社か、とすこし興奮を覚えながらつくづくと眺めた。そして、ここで落ち合ってしまえばいいわけだとおもいついた。

受付で翠の名を告げ、面会を求めた。

「お約束ですか? どちらの部署かおわかりになりますか」受付の女性は訝しげに貴英を見た。

「同郷の者で、たまたま所用で近くへ来たものですから。具合が悪いようなら、電話口にちょっとだけ、出てほしいです」

「お待ちください」女性は相方の女性となにごとか小声で言葉をかわした。それからどこかへ電話を入れた。何度かうなずいて受話器を置き、翠の名前をあらためて確認したうえで言った。「いま人事課に問い合わせましたが、七月いっぱいで退社なさったとのことです」

えっと開いた口がしばらく閉じなかった。「どうして?」

「さあ」と女性は、無駄足を踏んだ来客に気の毒そうにまばたきした。

慌ててホテルへ舞い戻った。貴英が泊まっているホテルは竹芝にあり、十二階建て、浜離宮庭園に面している。宿泊代が安く、対岸のお台場が開発される以前から、役場は出張の際の常宿にしてきた。シャワーを浴び、決めておいた時刻にロビーへ降りた。

翠はちょうど着いたところだった。ただ、一人ではなかった。横に西武ライオンズの野球帽をかぶった十歳ぐらいの少年がへばりついていた。

「会社の前で待ち伏せされて、この子にデート申し込まれちゃった。先約があると断わったのに、じゃ待ち合わせの場所まででいいからって、強引なんだ……」昨夜の涙が夢だとおもえるほど明るかった。会社とはどこの会社だよと口から出かかる貴英の機先を制するように、「ほら将来のドン・ファン、ご挨拶なさい」

「お姉ちゃんは美人で変な男に痴漢されるかもしれないから、ぼくが付き添ってきたんだよ。村川正午です。セイゴって呼んでいいよ。で、おじさんの名前は?」

翠がお姉ちゃんで、なんで同級生のおれがおじさんなんだと年甲斐もなくむっときたが、抑えて名乗ってやった。

「じゃ、タカでいいか。いや、ヒデにしよう。サッカーの中田ヒデと同じだ」

「勝手に決めるんじゃねえ」

「お姉ちゃん、このおじさん、怖い」生意気な口をきく小僧だった。

せっかくだから夕景のレインボーブリッジを見ようと話がまとまり、ホテルを後にした。埠頭までのわずかな道のり、翠と正午はじゃれあって、しきりに笑い声を上げた。

埠頭は左手に二棟の高層ビル、右手に超高層ホテルがそびえ、内側にコンクリート道の公園が整備されている。公園の中央部には、帆船のマストがそびえ立つ。「ゆりかもめ」竹芝駅の方角からそぞろ歩いてくる若いカップルたち。涼風に波立つ川面。靄の中に、レインボーブリッジは浮かんでいた。橋はときに、美しさより神聖さをまとう。

売店でソフトクリームを買い、三人で一つのベンチを占めた。しばらく黙ってそれぞれに眺望と向かい合う。降りてくる夕闇の深まりとともに、対岸の灯もあでやかに増していく。浜離宮庭園の前にはいつのまにか屋形船が数隻、屋根の軒に連ねた赤提灯をきらきらと水面に揺らめかせて、もやっている。

「セイゴ、おまえ、なんで翠のストーカーやってんだ?」

「だって、ママが帰ってきたらさ、お姉ちゃんが遊びに来てくれなくなっちゃったんだもん。来てくれないなら、こっちから行くしかないじゃん」

「ママ、どこかへ行ってたのか?」

「網走の刑務所だよ」

「そんな軽々しいこと、口にしてはだめ」すかさず翠が母親の口調で叱った。

「どうして? 嘘を言ったり隠し事をしたりしてはいけないって教えてくれたのは、お姉ちゃんでしょ」不思議そうに首をひねる。

「それは。それに網走なんかでないわよ」

「パパも、ママはちゃんと償いをしてきたのだから、こそこそすることはないって言ってるし」

「本当……? パパが、そう言ったの?」どこかぐらついたように見えた。

「ママね」と正午は貴英に顔を向けた。「交通事故で人を轢いちゃったんだ。その人が死んでしまったのに、逃げちゃったから逮捕されたんだ。それで刑務所に入れられた」

「そっか、じゃ、ママがいなくなって寂しいおもいをしてたんだ」

「うん。でも、そうでもない。お姉ちゃんがときどき来てお料理つくったり、ゲームつきあってくれたりしたから。運動会にも弁当持って来てくれたし、パパと三人でドライブにも行ったし。去年なんか一緒にサーフィン、いっぱいやったもの」

「サーフィンか。翠はけっこううまいよ。むかし、おれが手ほどきしたんだ」

「うそ、おじさんが?」

「おれたちの島には、サーフィンでもウインドサーフィンでも、何人かすごいのがいる。日本海の荒波が相手だからな。おれがもちろん一番だが」片目をつぶってみせた。

「意外」素直に瞳を輝かせた。「でも、お姉ちゃん、今年の夏は、誘っても大きい帽子かぶって見ているばかりだった。もう若くないから日焼けから卒業するんだって。女ってほんと考えることがわかんないよ」

夜陰を淡くおびた翠の横顔に目をやると、どこか投げやりな表情を浮かべている。昨夜の電話は、正午の父親からだったのだろう。正午の母親が交通刑務所に収監されている間に関係ができ、刑期を終えて釈放されたことで破局した……正午の饒舌からそんな図式がかいまみえた。

「で、パパとママは、仲よくしてるの?」

翠の問いかけは唐突に聞こえた。

「そりゃあね。やっぱ、久しぶりだからさ。ぼく、見たいテレビも見ないで早く寝て、できるだけ二人っきりにしてあげてるんだ」

少年の無邪気は、翠の心を残酷に踏み荒らしたかもしれなかった。

翠に命じられて正午は自宅に電話をかけた。最寄りの山の手線の駅の券売機に馴れたしぐさでコインを入れ、自動改札を抜け、手を振りながら帰っていった。

おいしくて安いタンシチューを食べに行こうと、銀座に案内された。そのレストランで翠は重い口を開いた。

三年間にわたる翠の恋は、貴英が正午の発言から読み取ったとおりに、正午の父、村川啓二の妻が轢き逃げ事件を起こし、捕まったことに始まっていた。雨中の横断歩道で父子をはね、小学生の子が死亡、父に重度障害を負わせたのだという。村川は翠の会社の直属の上司だった。新聞記事にもなり、当然のごとく社内外での村川の立場は大きくゆらいだ。

「役員に、細君が起こした事件で君が辞めることはないぞ、と声をかけられたというの。でも、それを真に受けていいのか、それとも暗に辞めろと謎かけをされたのか、と悩んで、私にも意見を求めたの。役員に辞めろと言う権利はない……私はそう答えたけど」

社内外の視線を日々感じながら仕事にたずさわらなければならない一方、裁判の傍聴、被害者の遺族との補償交渉、朝夕の食事をはじめ正午の養育にとられる時間のやりくりなど、村川は変化に翻弄されて、しだいにやつれを露わにした。まるで妻の罪をかぶるかのように一人で毎日と戦い、疲弊に耐えるそんな上司に、翠はいつしか手をさしのべていた。同情が愛情に変わるまでに、さしたる時間もいらなかった。

「子供なんてげんきんなもの。母親代わりを一生懸命つとめてきたつもりなのに、実の母親が目の前に現われたら、もののみごとにお払い箱。あげくに父親まで、はしゃいじゃってさ」自嘲するように鼻を鳴らした。「それにしても案外早くに仮釈放って来るものなのね」

「昼間、翠の会社の近くに行ったので受付で面会を頼んだんだ。そしたら、七月いっぱいで辞めたと言われた」

「そうなの……。転職したこと知らせてなかったものね」

人の噂も七十五日で妻の不祥事はいつしか忘れられ、この春、村川の課長昇進が決まった。翠はこのとき、ここで自分たちの関係があばかれたら、上司と部下の不倫スキャンダルとして、今度こそ村川の出世に障るだろうと考えたのだという。「それだけでなく、私自身が限界だった。同じ職場で秘密を持つ苦しさ、つい体が体にしなだれかかっていきそうになる欲求に耐えられなくなっていた」

「そこまでしてやって……」

「でも結局はあいつ、抱けなくなった女房の代わりに私を抱いていただけだったんだ。女房に面会に行き、金網の仕切り越しに欲情して、返す刀で私を抱いたんだ。出所したその日に、あいつはきっと、女房を抱いたにちがいない」

「やめろよ、そういう言い方、翠らしくない」転職という犠牲を払ってまで貫こうとしたなにものかの、その果ての空しさが吹雪の荒びの音色でひびき、だからこそ貴英は強く制せずにはいられなかった。

「離婚して私と再婚すると約束もしたのに、あいつ、それも寝物語だったっていうんだよ。女房は自分の励ましを信じてつらい刑に服してきた。蔑みと冷遇の待つ世間で、頼る者はほかにいない。母親の帰りを、息子が手を取って喜んだ。だから親子三人でもう一度やり直させてくれって、土下座したんだ……。刑に服したのは自業自得じゃないか。出所したって死んだ人は生き返らない。世間から冷たくされる覚悟ぐらいあって当然じゃないか。正午は、……しかたないけど。じゃあ何、私たちの関係は絵空事だったの? そう言ってやった。別れない、約束どおり早く離婚してほしい、そう言ってやった。人知れぬしのぶ恋、秘める愛が、人に知られなかったからには初めからなかったも同然だってことなら、逃げの方便、卑怯じゃないの」

「翠……」顔の前に掌をかざした。

翠ははっと貴英に目を合わせ、また目をそらして、肩で息を継いだ。「ごめん……」

「別に謝らなくたって……。おもっていること、みんな吐き出していいよ」

「……貴英は優しいね」

「幼馴染みだろ」

「そうだね」やっと口の端が笑み割れた。

貴英は〃嫁恋い〃キャンペーンや上京してから回った結婚相談所の話をした。島の出来事には楽しそうに聞き耳を立てていた。

「それじゃ、だいたい終わったんだ、用事は。明日からはどうするの?」

「健次や杉男には、ついでに東京見物してくると言ったけど、特に行きたい所もないし、江の島に行ってみるかとおもってる。ヨットハーバー見てみたい」

「どうして?」

貴英は年頭に会報で発表した島の未来像のこと、祖父が機嫌を悪くしたこと、杉浦土建が便乗して騒いでいることを説明した。

「そりゃ、村長は怒るわ。環境保全第一の人なんだから。でも、なんか、島らしいのどかさがあっていい話だなあ」遠くをのぞむ眼差しになった。「明日、秋分の日で休みだし、それなら、一緒に私も行ってあげる」

「本当に?」

「島の青年部がめざす島の将来のため、すこしは協力しなくちゃね」

翠は手を付けていなかった料理に急にとりつき、大きめに切った肉片を一口で頬ばり、うんおいしい、というようなことをもぐもぐと言った。

タクシーをひろった翠と別れたあと、貴英は華やかな女性たちがビルの前で客を見送る銀座の通りを歩き抜けて駅へ向かい、ホテルへ帰った。レストランにいる間に通り雨があったらしく、蒸し暑さと涼しさとが混じり合った複雑な空気が、舗道によどんでいた。低くかかった雲が街の明かりを照り返して、空はほのかに色をおびていた。

翠から電話が入ったのは、風呂に浸かっている時だった。バスタオルをつかみ取って素っ裸のまま浴室を出、受話器を耳に当てがうと、声はすでに壊れかかっていた。

「貴英、私、悔やしい。悔やしいよ」

「どうした、ゆっくり話せ。落ち着けよ」

「さっき、あいつの女房から電話があったんだよ」いまにも泣き出しそうだった。

「えっ」と一瞬、不穏ななりゆきを想像した。「何なんだって? ちゃんと聞くから、整理して。慌てるなよ」

「正午が話したらしいんだ。それで、きょうは正午がお世話になりました、ありがとうございましたって、お礼の電話なんだよ」

「それは、嫌みということか」

「ちがうよ。本心で、お礼なんだ」

「だったら騒ぐことないじゃないか」

「それだけでなく、自分がいない間は主人も並々ならぬご助力をいただいたそうで、言葉に表せないぐらい感謝しています、前から一度、お礼を申し述べなければならないと心からおもっておりましたって、電話の向こうで頭下げてるんだよ」

「わからない。だから嫌みなんだろう?」

「ちがうんだって。嫌みだったら、こっちも言い返せばいいんだから、そのほうがかえっていいんだ。でも、本心から言ってるから、たまらない……」

「どういうことだよ」

「女房のやつは、もともと育ちのいいお嬢さんで、純情で、素直で、疑うことを知らない、いい性格の人なんだよ。それに、きっと会社ってものを勘違いしてるけど、会社の部下が上司の面倒を見るのは当然とおもっている。そういう女なんだ。だから、私とあいつのことをこれっぽっちも疑ってない」

「そんなこと、あるのかな」

「そうだよね。自分がいない間に夫を奪った憎い女って、どうしてわからないんだろう。どうして夫を盗んだ女めって、嫉妬しないんだろう。わかってない相手、最初から土俵に上ってない相手とは、戦うこともできない……。そんなの、つらいよ。私はあいつと寝てるのに……。何度も、何度も、何度も、寝てるのに」

「翠……」こっちだってつらい。

「よっぽど、そう言ってやろうと考えたよ。口をついて出そうにもなった」涙で声がびっしょり濡れている。「でも、言えなかった。どうしてだろう、言えなかった。言えなかったことも、悔やしくてさ」

「言わなくてよかったんだよ」貴英は祈りをこめてさえぎった。さえぎらなければ翠は勝手にどこかへ行ってしまう気がした。

「言わなくて……、どうして?」

「言ってたら、おまえの負けだったから」

「負け? 何が負けなの」水面の浮きがぴくりと震えたように、トーンがうわずる。

「言ってたら、人間として、女として、翠のレベルが低いってことになる」

「……人間のレベル。……そう、最低だね。女のレベルも、最低だね」また声が涙に濡れた。「好きだった。愛してた……。なのに、あやうく、好きだったことを冒涜した。愛してたことを汚してた。自分で自分を辱めるようなことをしては、だめだよね」

それからひとしきり、しゃくりあげる気配が続いた。貴英は翠の気持ちの変化をかすかも聞きもらすまいと耳を澄ませていた。

「貴英……」

「うん……何だ?」

「いっぱい醜態、見せちゃった」

「醜態なんかじゃないさ。悲しかったら、みんな泣く。泣くしかないよ」

ははは、と翠はかぼそい笑い声をもらした。そしてわずかな沈黙の後、ありがとう、とぽつりと声があって、電話は切れた。

受話器を置いて、どうやら大丈夫だと緊張が解けた時、貴英はいつのまにか自分も涙を流していたと気づいた。くっそう、おれまで泣いちゃったじゃねえか、と拭ったタオルを壁に投げつけ、ベッドに倒れこんだ。素っ裸のまま大の字になり、大の字のまま、いつか眠りに落ちていた。

駅からの細い道は、白く四角い煉瓦ふうの葺き石で化粧されている。左右に隙間なく並ぶ土産物屋。食堂の店舗。倒れ落ちてきそうな高さで建つマンション。そんな世俗の景観に、海は間近さの気配を殺されている。潮の匂いもとどかない。しかし道なりに歩きつづけると、車の騒音とともに突然、前が開ける。江の島は砂嘴のようにのびる長い橋の先端に、靄をまとって浮かんでいた。

「残念ね」橋の半ばを過ぎた所で翠が足を止め、「晴れてれば富士山が見えるのに」

大型の台風が九州に接近している影響で、雲が厚い。灰色の薄雲が前触れの動きで低空を駆けぬけていく。橋の左側の海面では、絶好の風を得たウインドボーダーが、ここぞととりどりの色柄の帆を行き交わせる。

ヨットハーバーは、島の東側の岸辺をほぼ占める。陸揚げ用のクレーン施設を擁する広々とした陸置場には、美しいたくさんの艇が安置されていた。艇と艇の間で男たちが、クルーザーを載せた台車を手で押し、移動に汗を流す。泊地のほうは、公園ふうに整備された突堤、センタープロムナードで、二つに仕切られている。規格上大きなヨット用、ディンキー用と使い分けの決まりらしく、すでに台風に備えたのだろう、おおかたの艇は帆をたたみ、小刻みな波が舷側を叩いていた。

貴英と翠はプロムナードの植込みの間に建つ小さな東屋のベンチに座り、停泊するヨットにしばらく視線をあずけた。天を突き、せめぎあうマストが波にあおられ、カシャッ、カシャッと艇具が打ち合い、いったん弾けるように空へ散った金属音が、絶え間なく水辺へ舞い注ぐ。

「埋め立てられる前って、どんな景色だったのかな……」翠はそうぞうすする目つきで、遠くを見つめた。

貴英は圧倒された。だが気をとりなおして言った。「おれたちの考えるヨットハーバーは、夏場だけ基地として使えればいい。広い陸置場なんて最初から考えてない。埋め立てができるような島ではないのだし」

施設のレベルの高さ、想像を超える規模の現実を目の当たりにしたからといって、仲間たちの夢を見捨てるようなことは言いたくない。島に可能な範囲で夢を追う。追っているうちにどうにかなる。そうおもいたかった。

「島から都会へ出た女の人の何人かでも戻ってきて、島の男と結婚してくれると余分な苦労も減るんだけどな」と呟いたのは、島に魅力が生まれればいずれそうなるという意味からだった。

ところが翠はふいに声を棘立てた。「そうね。戻れば、女は島の貴重品だものね」

なにか機嫌を損ねたかといぶかってみつめると、こんどは逆に貴英の知る翠らしくなくどこか抑えた口調で、言い訳のようにことばを継いだ。

「嫁問題で、島の女にも責任の一端があるみたいなこと、あまり簡単に言ってほしくないんだ……。島に女がいないのはどうしてか、誰が女たちを島から出したのか、貴英は考えたことある? 明治、大正、昭和と、稼ぎになる産業はなに一つない島から、女たちは現金収入を得るために出て行った。貧しい親のため、貧しい島のため、ごくつぶしと謗られないため、せっせと働き、仕送りに励んだ。故郷を離れた寂しさと、心細さをじっとかかえてさ……。戦前には身売りされた人だっている。そういうことがしきたりみたいに繰り返され、自分でも当たり前とおもって従ってきたというのが、島の女の歴史なのよ。いまだって名残りがある。なのに、島が少しばかり豊かになったからって、今度は、女に島を出て行かれては困る、島に戻ってこい、だなんて勝手だわよ」

島の入口にあたる青銅の鳥居へ引き返し、参道の坂を上り、竜宮を模した門をくぐって、神社に詣でた。江島神社は島内に三つの宮を持ち、海民の守護神、宗像三神をそれぞれに祀るという。翠と並んで手を合わせた辺津宮の祭神はタギツヒメということだった。拝んでいるさなか、突風が吹いた。拝殿の横に設けられた絵馬所の絵馬が打ち重なってあおられ、バタバタバタと一度鳴り、二度鳴って、ひびき渡った。蒸し暑く、日は陰ったままの午後だった。

サザエの壺焼きとか、海の幸が売りの料理店ばかりひしめく沿道に、コーヒーの旨そうな店をさがした。「ないわねえ、茅ヶ崎まで行けば一軒知っているけど」と翠が口にして、そういえばマリンスポーツのメッカが近い、とにわかに気が立った。

「行ってみたいって、茅ヶ崎に?」

「サザンオールスターズの、ほら、チャコの海岸物語に出てくる岩。何だっけ」

「烏帽子岩のこと?」

「それそれ」映画で有名になった岩。「その岩を背中にしょって一生一度の大きな波に乗るのが、湘南のボーダーの憧れなんだろう?」

「なにそれ? 映画の中の話でしょ。聞いたことない」にべもなく言い、どこか気乗りしない様子もあったが、せっかくだものね、と額の汗を拭った。

この日、貴英は、翠がのぞかせた悶えを忘れてはいない。翠が負った深傷から、いつまた何が噴きだすかと気が気でなかった。しかしはしばしに貴英がくばる神経をよそに、翠は落ち着いていた。憑きものが落ち、一景一景に澄んだ目を向けているとも感じられた。ひろったタクシーの中でも、翠は無言で海を見つめていた。

茅ヶ崎の海岸線は砂防林の松林で縁取られている。その緑の帯を、国道が割箸を割るように切り裂いて走る。松林は飛砂と塩害から人の営みを守るためにあるはずだが、今はむしろひしめく車の排気ガスと騒音から海を守っているかのようだった。

信号を折れてサーフショップの並びで停めるように、翠は運転手に指示した。人影のない中学校の校庭と向かい合って、白いタイル貼りの建物が三色旗をはためかせている。一階がレストランだった。店内を見通せる草色の枠の窓。窓框には、淡紅の可憐な花をつけた鉢植えがたくさん置いてあった。

「翠さん、台風の波が着いてますよ」とドアを開けたとたんに食事中の三人組から声がかかった。軽く手を上げたしぐさが、どこかうきうきと明るい。日焼け顔のウェイトレスも親しげに笑みを寄せる。翠は挨拶を返しながら、窓際に席を選んだ。

「みなさん、今朝から集まったみたいです」とウェイトレスは冷水のグラスをテーブルに置き、伏せてあった注文伝票に手をのばした。「なさるんですか?」

「用意、持って来てないわ」

「よかったら私の、お貸しできますけど」

「ありがとう。でも、きょうはいいわ」気のおけない同士の囁きにも聞こえるやりとりの後で翠は、ここの蟹のサラダは最高よ、とメニューを開いた。

先にコーヒーで一息つく間に、お薦めの一品が出た。ほぐした蟹の身に細切りのじゃがいもと香味野菜を加え混ぜ合わせたもので、翠はそれにオリーブオイルとワインビネガーをかけた。烏賊墨スパゲッティが運ばれ、それぞれ適量を皿に取り分けた時、店のドアががらんと鳴った。同時に子供の高い声が耳にひびいた。

「ほら、パパ、だから言ったでしょう、お姉ちゃんがいる気がするって。ぼくの予感は当たるんだ」

驚き半分得意さ半分に丸く眼をみはる子供の後ろに、男が二人立っていた。一人はTシャツ姿で髪に白さのまじる、温和な風貌だった。とっさにベージュのブルゾンをはおったほうが正午の父親だとさとり、おもわず腰が浮きかかった。背を焼くようによぎったのは、翠が突然声を荒らげ罵詈雑言をぶつけて村川にすがりつく、修羅、愁嘆の光景だった。

しかし、村川と翠は、束の間、眼差しを重ね合わせただけだった。どちらからとなく逸れた視線の行く先を翠はウェイトレスに求めた。事情を知ってか知らずかウェイトレスは、唇を一文字に結んでいた。正午の手に引かれるままに三人は隣のテーブルについた。

「元気?」いかにも自然に村川が尋ねた。

「ええ」翠は飼い主の前の猫のようにかしこまった。そしてふっと顎を上げ、奥様もご一緒なの? と怯えるふうに窓の外を見た。

「ママは来ないよ」と父親の横から正午が口をはさんだ。「介護の資格を取るための学校に行き始めたから。もっと償いをするためなんだって」

翠の瞳がゆれるのを見て、貴英は胸をつかれた。この時やっとわかったのだ。翠が江の島へ同行したのは貴英のためではなかった。湘南は終わった恋の思い出の土地なのだ。だから道案内を理由に、あたかも思い出の写真を目に焼き付けてから破り捨てるように、もう一度訪ねようとした。おそらく、訪ねて、別れを受け入れるために。

「それでね、永富のおじさん、このおじさんがさっき言ってた、お姉ちゃんにサーフィンを教えたヒデって人。日本海の島で一番うまいってうぬぼれてた人だよ」

「ほう」と永富というらしい男が興味を示した。

「ヒデ、永富のおじさんはこの地区のウインドサーフィンのグランプリマンなんだ。もっとも三年前までの話だけど……。負けた時、私は波に負けたのではない、寄る年波に勝てなかったのだ、なんて、名セリフ吐いたんだってさ」けけけと目を細める。

永富は少年のように頬を赤らめ、苦笑いして、「じつは日本海にそんな名の島があることも知りませんでした。ところが、島の若い人たちはサーフィンもウインドも自分よりずっとうまいと、ほかならぬ翠さんに聞いていました。で、いつかお手並みに触れたいとおもっていたのです。そうですか」と貴英の漁師焼けした顔をまじまじと見た。

「これから浜へ?」

「ええ。いい波が来てると電話もらって誘い合わせたので、出遅れましたが」

烏賊墨スパゲッティは美味だったが、量がいかにも足りない。追加でアンチョビのピザを頼んだ。隣のテーブルに料理が来て、正午はカレー色のリゾットをかかえこむ。平らげて、すかさず椅子を蹴った。「お姉ちゃん、早く一緒に行こう。最高の波だぜ、きょうは」翠の手をひっぱりながら、ちらり、横目をくれる。「こんな食い気ばかりのおじさん、待ってたら日が暮れてしまうよ」どこまでも口の減らない餓鬼だった。

翠はしかたなげに目配せし、席を立った。扉の前で一度正午を制し、村川を振り返った。ほんの一刹那、力なくだが、刃がひらめいた気がした。村川はまばたきもせず、黙って女子供を見送った。

こちらへ来ませんかと永富に誘われ、村川の横に席を移した。永富はマリンスポーツの競技者であるだけでなく、大型クルーザーのオーナーでもあるらしく、海の魅力も怖さもよく理解していた。ハワイやメキシコの有名なビッグウェーブに挑戦した経験もあるという。永富の口にする優雅な暮らしはすこしも嫌みでなく、海に親しむ情熱は快かった。こうした人物にこそ島の魅力を喧伝し、来島を願わねばならない。気に入ってもらえれば、口こみでも影響は多大だろう。

「冬の日本海は荒れるでしょう。そんな波でやれたら、すごいだろうね」

だが、島や海の様子、波の性格をたずねられたとき、貴英は一瞬躊躇した。気おくれしたからではない。こうした人たちが島に押し寄せたらどうなる、とふっとよぎったのだ。仲間が楽しむボードやウインドサーフィンは、仕事の息ぬき、遊びでしかない。ささやかな暮らしの一部で、スポーツとはいえない。もちろんファッションでもない。そのささやかさが速やかに失われることになるのではないか。不意の迷いだった。同時に、そんなことで迷うのは島の未来を観光に期する立場に矛盾する、と面食らった。貴英は島のよさを語ったつもりだが、はじめの躊躇を、話の間中、なにか押しのけきれなかった。

「翠からすべて聞きました。つらい目にあわせてくれたみたいじゃないですか」永富が洗面所に立ったとき、村川に話しかけた。声にどすがこもってしまい、村川は驚いて不安げに身構えた。「責めはしません。男と女の間に他人の出る幕はないでしょう。ただ、これだけは知ってください。彼女は本当に死のうとしていた。深夜、マンションの屋上に立っていたんです。そこに私が、行き合わせた」

村川の表情が瞬時に変わった。視線がゆらぎ、首筋が二度三度と小さく跳ね上がった。そして、そうですか、それでは、あなたが止めてくれたのですか、と勝手に解釈して声をつまらせ、放心して、それはよかった、助かった、と言葉を震わせた。人前もはばからずに行き惑う姿に、肝は小さいが心の冷たい人間ではないらしい、と少し見えたおもいがして、貴英は言い出すべきではなかったかと、かえって後悔した。それ以上追及せずにいると、落ち着きを取り戻した村川のほうが口を開いた。

「清算することは、一度納得してくれたんです。どうあっても私にムシのよい話ですから、改めて許せないというのも、やむをえません。だが、私だってつらい。いまでも私は彼女を愛している」

「そんなずるい言い方はしないほうがいい。奥さんも愛しているのでしょう」

「いや正直、いま私が妻を愛しているかと問われたら、愛しているとは答えられない。結婚生活での夫婦の愛情は、ある時期からは日常生活の持続のなかで保たれるのではないですか。妻が轢き逃げ事故を起こしてから、私たちは金網越しに月に一度、健康を確かめ合うだけになった。日常がなくなってしまった。妻への愛情は、自分でもうろたえるほど、みるみる冷めていって、残っているのは配偶者としての法的な義務感だけです」

「おっしゃることがよく……。でもそれなら、問題はないでしょう」

「どちらを愛しているか、という点では確かにそうです」

「ほかに何があるのですか」

「わかってください。翠を選ぶことは、妻と息子を捨てることなのです」

「当然です」

村川は口ごもり、目を無意味に泳がせた。「息子にはパパとママは別々に暮らすことにした、とだけ説明してあったんです。小さかったせいか理由を聞く知恵もまだなくて、息子は黙ってそれを受け入れてくれました。仮釈放の通知が届いたとき、今度はどうしたらよいのか、悩みました。結局、偽らずにすべてを明かし、その上で、悪いことをしてしまったママだけど、これから先、一緒に暮らすか、いまのように別々に暮らすか、どちらがいいかと訊くことにしたのです。すると息子は、ママがいないことを本当は気にしていた、これからはパパもママもいる親子揃った暮らしがしたい、と飛び跳ねたのです。私はその喜びかたを見て、胸の裂けるおもいでした。どこかで私は、離婚しておたがいに再出発することを考えていました。しかしここで離婚したら、息子に新しい心の傷を負わせることになる。それは避けなければならない。妻への愛がなくなっていても、息子の願いを実現してやることが親の義務ではないか、そうおもったのです」

「親子水入らずで過ごすうちに、奥さんへの愛もよみがえるかもしれませんね」子供を言い訳にしている、とは言わなかった。

「遺族への賠償金のこともあります。もちろん死亡した子供にも重度障害を負った父親にも自賠責保険で賠償金は出ました。ただ父親に対しては生涯賃金を算定して、上限を超えた分が加害者個人の負担になります。支払い義務は妻ですが、妻には支払い能力はありませんから、私が保証人になりました。それがすごい額なのです。そこに翠を巻きこみたくない」

そのあたりから、貴英は話に耳を傾けることをやめた。村川の言葉は、ただざわざわと頭上を通り過ぎる。

「離婚して翠と一緒になっても、私が補償を続けることは変わらない。その重圧がやがて、二人の間をきっと切り裂く。なぜなら、その重圧は妻に由来するものだからです。私と翠の間に、賠償金の支払いという姿で妻が存在しつづける。そんな三角関係もどきの生活が、いつまでも成り立つとはおもえない。きっと破滅する。翠とそんなどろどろを演じたくない。私は一生、妻から逃げられなくても仕方がない……」

身勝手だ、詭弁だ、打算を排した愛もあるではないか、と村川を非難するのは簡単だった。しかし、村川はもう決めてしまっている。翠を愛していくのではなく、家族と生きていくことを……。翠は負けた。それを翠も知っている。男ともう一度やり直せるとはおもっていない。ただ、あふれる悲しみを、ほとばしる切なさを、どこにどうぶつけていいのかわからないでいる。迷う夜道でうつろに救いの星をさがし、一人立ちつくしているだけなのだ。

戻ってきた永富に、貴英は申し出た。「迷惑でなかったら、ウインドサーフィンで勝負してもらえませんか。私は本当に島では一番といわれている。せっかくここにグランプリマンがおられるのに、テクニックの一つも盗まずに帰ったら悔やまれます」

おっ、と永富は相好をくずした。「願ってもないですよ。レースしましょう。プロの漁師さんが、風をどんなふうに扱うか、見せてもらいます」若々しく目を輝かせた。

サーフショップでウエットスーツを借り、着替えて浜に出ると、パチパチとまばらに拍手が湧いた。見ると、芥子色のライフジャケットを身に着けた豆サーファーが、波のトップをタイミングよくとらえ、テイクオフしたところだった。神妙な腰がまえで途中ターンを決め、その危なっかしさがまた拍手を呼んでいる。しかし後方から迫った波にすくわれ、泡に呑まれた。何秒か見えなくなった後、水際近くに吐き出されて、板もろともごろごろと打ち上げられてきた。

「へえ、永富さんに挑戦したの。勝負になるのかなあ」正午はしこたま飲んだらしい海水をぺっぺっと吐きながら、貴英の介添えについた翠の顔をうかがい見る。翠が肩をすくめると、「よし、永富さんに百円賭けちゃおう」いっぱしの博打打ちの表情で、永富のもとへ駆けて行く。

上空にトビが舞っていた。長い砂浜は、防砂林に沿って遊歩道がはるばると延びる。防砂林の松は前面を高い網で覆われ、竹垣と植樹で根元が保護されている。小川が流れ出る口にコンクリートブロックを積んだ人工島が小高くあって、その沖正面に、水平線を下から突き破る格好で一つの岩が削り立つ。それが烏帽子岩だった。

ルールは簡単だった。ビーチスタートでボードを立ち上げ、烏帽子岩を時計の逆回りに回って二周し、戻ってくる。翠が烏帽子岩の周囲にひそむ岩礁や潮の向きを砂に書いてレクチャーしてくれた。

レースをイメージして沖を望むと、荒い吐息がせめぎあうように雲塊が押し出ている。うねりは予想より高く、波の帯が幾すじもの深い影を従えていた。

若者の一人がスターターをつとめ、フラッグを振り下ろした。

スタートで貴英はいきなりつまずいた。ボードを水中に運び、立ち上げて乗ろうとした瞬間、突風にあおられて頭からチンしてしまった。ビーチスタートなぞ初めてで、練習したこともない。まだ波打ち際に近く、軽蔑のまじった笑い声が聞こえた。やり直してつぎはこなしたが、とたんに高波の腹につっこみ、馬が後ろ脚で立つようにノーズを振られ、横滑りして、ここでも失笑を買ったようだった。永富のセイルはすでに、三つ先のうねりにかかっている。艶やかに舞う蝶さながら、うねりの頂上で帆を翻し、峰に隠れる。ボードの癖に馴染むまでは、差を広げられないでいるのが精一杯だった。

烏帽子岩に近づいてやっと追撃の気分は整ったが、小さな岩礁を避け、海底の地形のせいで複雑に砕ける波に気をとられ、ちらりと見える相手にかけひきを挑むまでにはなかなかなれない。岩を周回する間には風が正反対に変わる。一周目、永富は追い風に押されて大きく膨らんだ。貴英も十分に制御できず、イメージどおりの円を描くことはできなかった。風が反転する瞬間にはバランスを崩され、たたらを踏んだ。

二周目、永富はやはり膨らむ力に抵抗できないでいる。貴英はブームを強く引きつけ、膂力と体重のかぎりを使っておもいきりカーブを切る。セイルが根元で折れんばかりに傾く。ボードの縁端から鞘走る刃のように白いスプレーが飛ぶ。しかし小さく旋回することに集中していて、風と波の向きが複合する地点での操作がすこし遅れ、あっというまに岩に掃き寄せられた。ボードの底に衝撃があった。全身が跳ね上げられたと感じたが、辛うじて平衡を保った。尾てい骨を打ち割られるような激しいリッピングに追いうちされたが、膝をとっさに柔らかくして受け止め、なんとかやりすごした。危機を脱したとき、すぐ側面に永富のセイルが出現した。

ほぼ一線で岸へ向かうかたちになった。波面にノーズをぶつけていった往路とちがって、視界ははるかに広く感じる。風はブロー。みるみる浜は迫ったが、二艇はくつわをならべて譲らない。

最後の最後で不意に風が緩んだ。とおもえたのは、背後から異様に大きな波が来て、風をさえぎったからだった。大波は峰を高々と隆起させ、ぎりぎりまで尖り立つ。遠い洋上ではぐくまれた重い力のみなぎる気配に、貴英は直感した。波の峰は永富を通り過ぎたあと、自分の少し手前で崩れ始める。落ちてくる波頭に叩かれたら、ひとたまりもない。崩落の直撃を避けるには、ターンして水の坂を一気に斜めに滑り降り、先回りするしかない。

だが、貴英は別の衝動にかられた。ノーズを逆にあおって横に走った。波頭がめくれ返る。つぎの瞬間、艇と一つに体をバネに変え、おもいきり、空へ向かって跳んだ。白い豪快な崩落の鼻先で艇は宙に舞い、後方にくるりと回転する。風車になって逆立つセイルの向こうに、江の島の灯台が青くかすむ。一瞬の瀑布、その残光の中に艇は舞い降り、泡立ちの絨毯をずぶりと踏む。尻餅をからくもこらえてチンを防ぎ、そのまま岸へ滑る。永富に半艇身遅れて、ゴールラインへとびこんだ。

何人か興奮ぎみの若者に腕をかかえられて砂浜に上がった。永富がにこやかに握手を求めた。「すばらしい。あの風をねじ伏せるんだから、さすが力が強い。私が勝ったのは地元の利です」

「いや、負けは負けです。いろいろと田舎ぶりをさらしてしまって」

「ビーチスタートですか。あれは経験です。そんなことより、ループです。土壇場で、しかもみんなが見守る目の前で、ああも華麗に披露されては、勝負なんてかたなしですよ」いかにも気持ちよさそうに高笑いした。

入れ替わりに翠がゆっくりと近寄ってくる。急にくつろぎたくなり、砂の上にあぐらをかいた。すこし下から見る翠は、なぜか初めて会う女のように映った。ワンピースから白くのび出た脚、ふっくらと丸みを厚くした腰、なだらかで薄い肩、短めにカットされた黒髪、そして二重瞼、涼やかな額。翠は……美しい女だ、とまぶしくなった。

「どんな気持ち?」見下ろして言う。

「レクチャーしてもらって助かった。そうでなかったら、コースを岩から余分に遠くとるか、岩礁にひっかかるかして、もっとぼろぼろに負けた」

翠は烏帽子岩に目をやった。それからすこし棘をふくんだ声で言った。「わざと負けたんでしょう?」

「えっ」

「まったく。いつだってなんだから……」ふっと向けてきた顔に、いままで見たこともない優しげな笑みがあった。驚いて見返すと、うっすら頬を染めて肩をすくめ、いつも本当にありがとう、とつぶやき、横に座って裸足の足を開きめにのばした。

永富の近くではね回っていた正午が駆けてきた。「最初はどうなるかとおもったけど、カッコよかったよ、ヒデ。この海岸でループ決めた人はいないらしいから、ねえ、お姉ちゃん、この人、伝説になるよね。少なくとも僕は、忘れないからね」

時には泣かせることもほざいてくれる奴なのだった。

茅ヶ崎の駅で東海道線の急行に乗りこんだ。すいていたが、翠の希望でグリーン車両に席をとった。空模様のせいもあって、夜の帳は早々に下りていた。駅前の和食堂で飲んだビールがきいてうとうとし、その間に列車は多摩川を渡った。目が覚め、横を見ると、翠は外に顔を向けている。窓に写る目の下に、涙の跡が残っていた。翠は振り向いて、とりつくろう笑顔をつくった。

「バカね、私って」

貴英は黙って首を振った。

「貴英にお願いがあるんだ」

「何かな。おれにできることならなんでもするよ」

「頼るばっかりだね」肩に頭をもたせてきた。声はそれなりにしっかりしていた。

「いいから言えよ」

「私の子供の父親になってほしいの」

翌日、会社へ休みの連絡を入れた翠は、貴英と待ち合わせて病院へ行き、手続きと費用の前払いをすませて、夕方には手術にのぞんだ。

この日、西日本に台風が上陸して日本海へ出、北上をつづけた。手術は、東京が風雨のいちばん激しい時間帯にかかった。付き添いで廊下に控えていた貴英は、嵐が翠の心を表しているようで、落ち着けなかった。手術は一時間ほどで終わった。看護婦が、支障はないけれども出血が多かったので念のため一晩だけ入院させたいがどうか、と意向を尋ねにきた。明日迎えに来るから、とベッドの横で声をかけると、翠は涙をこらえるかのように目を閉じたまま、幼馴染みの手を強く握った。

深夜、ホテルを出て、埠頭を歩いた。いつしか嵐は嘘のようにおさまり、雲間に満月がのぞいた。雲の切れ間の間だけ、黒い川面にいくつもの分身が踊った。

マンションに帰ると、翠はこんこんと眠った。熱が下がらず苦しいせいもあったろうが、眠ることで何かを忘れようとしているように貴英にはおもえた。貴英は、額の濡れタオルを取り替え、近くのスーパーで買った材料で食事を作り、冷たい飲み物を用意して、日がな一日つきっきりで過ごした。寝顔の表情がしだいに安らいでいくのに安心して、夜は泊まらずに宿所へもどった。

翠はその夜、夢を見た。

「赤ちゃんが会いにきたの」と、朝早くに行くと、その夢の話を貴英に聞かせた。「赤ちゃんといっても人の形にはなってなくて、声だけなの。言霊の赤ちゃんなの。お母さんはどんな人なのって赤ちゃんが聞くの。それで私は島で生まれたのよと、島のことをいっぱい話した。青い空。澄んだ梢。広い海。光る波。夏の落日。冬の吹雪。そしたら、行ってみたいって、その子が言うの」

「島へ……、赤ちゃんが?」なにかたじろがされた。

翠は前日とは見違えるほど、体力は回復していた。午前中は起きていて、林檎をむいてくれたりした。午後には一眠りした。そしてどこかうつろに目覚め、また赤ちゃんが会いにきた、と目を細めた。「こんどは、お父さんはどんな人って聞かれたわ」

「……それは、聞くかもな」

「それで、困って、貴英のことにしちゃった」

「いいさ、書類上は父親だし」病院の承諾書には、父親は貴英、理由は翠が未婚の上に仕事で海外赴任が予定されているため、と記入した。「それで、赤ちゃんは、納得してくれたかい?」

「島では若手のリーダー。みんなに尊敬されている。漁師の腕もいい。声を掛け合って大網をたぐりよせる大謀網の勇ましさ。おまけにウインドサーフィンでは、本場湘南になぐりこみをかけた猛者。そう話したの。だから納得も納得。声があっちに出たり、こっちに出たりして、わたしをきょろきょろさせるぐらい、興奮して聞いていたわ。それでね、やっぱり島に行きたい、連れてってほしいって言うの」貴英をじっと見つめた。

貴英はうんうんとうなずいた。「帰るとき、おれが一緒に連れてってやる。おれについてくるよう伝えてくれ」

だが翠は首を横にして断わった。「私が行くわ。私が連れて行く。お母さんの私がそれぐらいしてやらなくちゃ。島の静かな所で眠らせてあげなくちゃ……」下を向き、涙をこらえた。

翠の夢には贖罪とか祈念とかが投影されているのだろう。心の一つの区切りとなりうる可能性も考えると、翠にとってはそれも好ましいかもしれないと貴英はおもった。

だが翠は、明日すぐに島へ帰る、と言い出し、貴英はあっけにとられた。それには反対しないほうがどうかしている。

「急ぐことはない。完治してから行けばいい」体を気づかい、貴英は真剣に説得した。

しかし翠は聞く耳を持たなかった。「この週末には大事な仕事があって、しばらくは時間がつくれないの。それが一段落するのを待っていたら、そのあいだに、いまなら夢の中にいてくれる赤ちゃんが、待ちくたびれてどこかへ行ってしまう。きっと消えていなくなる。だから、消える前に島を見せてあげたいの」

せめて次の週末にしてくれと、食い下がってみた。しかし翠は、ぷいと不機嫌になり、「いいわよ。私、一人で行くから」と口を尖らせた。一人で行かせられるわけがない。貴英は折れるしかなかった。

翌朝、ホテルのチェックウトも早々に東京駅へ向かった。なにか不吉なおもいにとりつかれて一睡もできなかった。もし顔が青ざめていたり、歩行がつらそうなら、強引にマンションへ連れ帰ろう、わめくなら好きなだけわめけばいい、絶交されてもしかたがない、そう強気に決心して、荷物をまたいで、待ち合わせ場所に立った。だが、翠はなかなか現われない。もしかすると具合がおもわしくなく取り止めたかもしれないと、好都合を想像する。想像したらしたで、大丈夫だろうかと心配になる。とんとんと、後ろから肩を叩かれた。振り向くと接するほど近くに、ちょっと眉をひそめた、翠の顔があった。

「何やってるの」

「何って、待ってたんじゃないか」

「人と待ち合わせするのに、なんだってそんなに力んでるの。まるで弁慶みたいに突っ立ってるから、通り過ぎる人がくすくす笑ってるわよ」

「え、そ、そう」翠はおもいのほか元気そうだった。「じゃ、行こう」自分からうながしてしまった。

上越新幹線の列車のなかで、翠は何度か手洗いに立った。そのたびに胸に不安がひろがったが、ここまできたら無事にエスコートしていくしかない、と腹をくくった。

新潟駅で乗り継ぎ時間を利用して食事をとったとき、翠は食べたがって注文したカレーライスを、ほとんど残した。乗り継いだ列車では貴英の肩にもたれてすこし眠った。息がどこか苦しげだった。フェリーの港までは駅からタクシーをひろった。十五分ほどの間、薄く目を閉じて口をきかなかった。そんな様子がことごとに気にかかったが、大きな異変の前兆とまでは疑わなかった。

フェリーは白い船体を桟橋に横づけていた。

一時間あれば島の港に入港する。ほっとしたのだろう、翠も頬に血色をとりもどした気がした。いったん一等の船室に落ち着き、船が動きだしてからデッキへ出た。空は高く薄曇りで、潮風が匂った。海岸がみるみる遠ざかり、かわりに奥羽の山並がゆっくりと眼界を占める。港のはずれに群れていたカモメの声がまだ聞こえた。

「私はここで海を見ながら行くわ」翠は言った。貴英が眉をひそめると、「だって私、海が好きなのだもの」と笑みを浮かべた。

「海はおれだって好きだ」

「そうでしょう。なぜ?」

なぜ? 言葉につまった。「なぜって、海はおれたちの生活の……」

ふんとばかり翠は鼻にしわを寄せた。そして後を言わせず、「もっとほかの理由を」と貴英をにらんだ。

翠は、言霊のわが子に海の魅力を語りながら行くのだろう。波のはざまに島が見えたら、あれがそうよ、と指をさすだろう。ここがいいと、翠はデッキのフロアに直接腰を下ろした。そこは内部構造が滑らかな突起形を作っていて、ちょうどよい寄りかかりになる。フロアの縁は上がり框のような段差が付いていて、足を投げ出すことができた。貴英は船室の荷物からタオルと麦藁帽子を取ってきて、翠に渡した。

荷物は置きっ放しにできないので、貴英は船室から、ときどき様子を見に往復した。初め、タオルは腰の下に敷かれた。いつのまにかそれは腹に抱えこまれていた。戻りがけを呼び止められたのは、航海も半ばあたりにきたころだった。なに? と振り返った。

「私さ、ファイナンシャル・プランナーになる」

「なに? それ。え、翠の会社ってなんなの?」

翠が口にした転職先の会社は有名なIT企業で、貴英は目を丸くした。「すげえじゃない。そんなとこ入ったんだ」

「こんどの会社はいくつもの職種でグループをつくっているんだけど、私の所属はそこのファイナンシャル部門、つまり金融ね、その部門を受け持っていて、たまたま前の会社での仕事とかさなるところがあったから、採用してもらえたんだとおもう」

「翠は頭がいいからな」

「そんなことは関係ない」軽く眉をしかめられた。「それで、こんどの会社では、自分のがんばり一つでいろんなことに挑戦できるってことがわかったの」

「IT企業は実力主義だってぐらいは知っている」

「前にいた商社はやはりどうしても古くからの組織のもとに動いているから、私なんか結局のところ、歯車の一つとしてしか動けなかった。なんか役所みたいな権威主義が組織にしみついていて、それが結果的に男社会をかたちづくってもいた。女は言われたことしかできない、うかつなことは言ってはいけないって雰囲気があったんだ。でも転職したら、同じような仕事なのに、自由っていうか、社内でなんでも言い合えるし、男も女も関係ない、良い仕事のためにはなんでもあり、の雰囲気で、大ちがい。それなら私も何かをめざしてやっていこうって」

「それがファイナンなんとか」

「ファイナンシャル・プランナー。ITの金融はまだ歴史が浅いから、未熟な段階ともいえるの。日本では一般の銀行もプライベート・バンキングなどは世界よりかなり遅れているから、もちろん急には安易に手は出せないけど、やがてはITの金融における資産運用のスペシャリストというのがきっと求められる。そういう仕事」

「よくわからないけど、大変そうだな」

「一歩一歩向かっていく。何だって一足とびに実現はしないのだから、現実の自分をよく見きわめて、そのなかでめざすということ。向かっていけば、それが実現するかもしれないし、その過程でまったく別の新しい目標が現われて、そっちへ向かうこともあるかもしれない。いずれにしろそうしていつか、自分の人生の納得できる充実を見つけたい」

「人生の充実か。それって金持ちになる、有名になる、とかではないだろうけど」軽口をたたいたつもりだった。

「貴英にはあるでしょ。人生の充実」

「なんのこと?」

「大漁で港に帰ってきたときにきっと感じているはずよ」

「ああ、そういう意味なら」

海に出れば板子一枚下は地獄の仕事だ。島の墓地には海難に遭った先祖の慰霊碑も立つ。誰もが日々、海上安全を願いつつ、そのうえで時に大漁に恵まれれば、喜びと満足はひとしお大きい。

「それが私にはない。いえ、島の女たちにはないとずっとおもっていた。いまはお嫁さんが来ないと言っているけれども、島の男たちには漁を通じて、そうした充実がある。島の女はそれを眺めているだけで、いつも味噌っかす。だから私は島を離れて、自分の充実をさがそうと決めたんだ。貴英の人生の充実に負けない、私の人生の充実を見つけたかった」

「おれなんかと比較するなよ」

「見つけて貴英に自慢したかった。でも、いつしか初志を忘れていた」

「翠ならきっと翠なりの充実を見つけられるさ。なんたって翠の性格はおれがいちばん知っている。がんばれよ。翠なら、がんばればなんだって可能さ。太鼓判」

翠はまっすぐに貴英に目を向け、「太鼓判?」と疑わしげににらみ、一つ長く弱い溜息をつく。「もし見つけられたら、本当に自慢していい? 聞いてくれる?」

「もちろんだよ。そのときは、翠がどんな遠くにいたって飛んでいって、聞くさ」

「飛んでこなくたっていい」はにかむように笑って静かに首を振った。そしてまぶしげに沖の白雲へ視線を細めた。「そのときは自分で来る。だって私には、美しい海に囲まれた、かけがいのない帰るべき場所があるのだもの。貴英の島、そして私の島が……」

それが、貴英が聞いた翠の最後の言葉だった。きっぱりと、海風に溶け入るような清清しい声だった。貴英は翠の肩をぽんと叩き、それからまた船室にもどったのだった。

デッキからはいつしか誰もいなくなっていた。船室ではほとんどの乗客が眠っていた。船上の、光明のしたたる、平和な午後だった。

貴英も前夜の不眠がたたって睡魔にひきこまれた。夢らしい夢を見たわけでもなく、貴英にすればそれはあたかも意識の一瞬の断絶にすぎなかった。しかしはっと身を起こしたときには、時計の針がずいぶん先に進んでいた。

慌ててデッキへとびだした。薄雲の破れ目から強い陽射しが降りそそいだ。

一人、翠は海を見ていた。しかし、姿勢がどこか不自然だった。体をねじり、寄りかかりに背中ではなく、頭をすりつける形でうなだれている。麦藁帽子が肩に落ち、青いリボンが揺れている。眠っているのだと念じながら、貴英は走り、息をのんで、立ちすくんだ。投げ出した翠の足の間が、床へ太く流れる赤い液体で、べっとりと濡れていた。

貴英は手を差しこんで、翠のうつぶせの上体を起こした。ぐらりと首が重く返った。顔から血の色がそげ落ちている。胸に耳を押し当て、心音を探った。聞こえない。なにも聞こえてこない。目は大きく見開いていた。頬を打った。冷たい音。もう一度打つ。反応はかすかも返ってこない。だめだよ、うそだよ。腕を、手の甲を、しごくようにこする。冷たく、皮膚がこわばっている。

貴英は、つよくつよく抱きしめる。掌でそっと瞼を閉じてやりながら、天を仰いで、声をかぎりに翠の名を呼んだ。

貴英は国男がスキューバの客から聞いた話をおもい出す。海の底へ沈んでいく魚を二匹の仲間が見送っていたという。はるか暗黒の国へ旅立つ命と見送る二匹との間でかわされたという訣別の舞いが、見えない剣のひらめきのように、しきりに目の前にゆらぎ立った。

翠は誰にも見送られずに息を引き取っていた。自分がすぐそばにいたというのに、たったひとりで、何ごとかにさらわれるように逝ってしまった。翠は死ぬために島に帰ってきたようなものだった。完治していない体での無理な帰郷が、死を招いた。

だが、と貴英はおもう。無理をすれば死ぬかもしれないと、翠には予感はあったのではないか。翠はその予感の克服に賭けていたのではないか。中絶してのちの、夢に現われた言霊のわが子を島に眠らせ、無事にまた東京へ帰ることができたら、恋の未練をきっぱりと振り払い、仕事に生きる女をめざすと、仕切り直しの決断を賭けに託していたのではないか。それほどにも深い悲しみのわずらいゆえの、避けられない賭けだったのではなかったか。

出来事だけを追っていえば、船上でつくしえた手立ては、島に緊急の通信を入れるのみだった。島の医者は入港前に内地に救急ヘリの派遣を要請していたが、翠はやはりこと切れていて、飛来したヘリコプターは爆音むなしく帰還していった。

翠の遺体は実家の奥の間に運びこまれ、横たえられた。両親と祖母、医者の前で、貴英は知るかぎりの事情と出来事を隠さずに語り、翠の無理な帰郷を延期させることができなかった非力を、ひれ伏して詫びた。医者は術後になにか問題が生じ、突発的な出血にみまわれ、ショック死したのだろうと推測した。祖母と母親は涙にくれるばかりで、父親はいま聞いた話は口外しないでほしいと貴英と医者に頼み、親族へ連絡をとらなければならないといって、掌を握ったり開いたりしながら腰を上げた。そうした間にも、海上に築かれた蟻塚さながらに、身を寄せ、支えあってきた島人たちであれば、異変を聞きつけ、しきたりどおり、一人二人と手伝いが門につどった。

一夜が明けて通夜の準備が粛然とすすんだ。いつ来たのか国男に肩を叩かれた。何があったか詮索のそぶりはおくびにも出さず、代わろう、と促してくれた。家へいったんもどり、健次と杉男に電話をして青年部なりの対応を確認した。その後で、一人、北の岬へ向かった。

いわし雲が往き、崖のススキはもう白い穂を飛ばしている。潮見櫓の下に立って、じっと風に吹かれた。

中学生になって間もなかった。翠と二人、櫓の軒に巣をつくったツバメの子育てを観察に来た。朝までの雨を銀杯草がその花房にまだ蓄えていた。観察に飽きると、教員一年生の英語の先生の教えぶりや音楽の話をした。翠はユーミンや中島みゆきが好きだといい、気にいっている歌詞のいくつかを挙げた。うなずくだけの貴英に退屈してか、そのうちに急に眠いといいだし、ジャージを枕に本当に寝てしまった。

ふといたずら心が起こったのは、目覚めを待つしかない取り残された気分からだった。銀杯草の花を一つ、雨がこぼれないように摘み取った。寝顔の上へ運び、唇に傾けた。予想に反し、雨の雫は唇の端にあふれて、首へ流れた。目がぱっと開き、おおいかぶさっている貴英の顔を瞳に映して、怪訝げにまばたいた。押しのけるように立ち上がって手の甲で口を拭い、首をひねった。そして、貴英をにらんだ。

「貴英、いま、キスしたでしょう」

貴英はびっくりした。キスという言葉にもたじろいだ。「そんなことしないよ。してないよ」

「私が眠っているのをいいことに。なんて人なの」決めつけて、怒った。

「してないって」

翠は貴英の否定を無視してそっぽを向いた。怒った勢いというように、磯への急斜面の道を降りはじめた。雨上がりで危険なので、貴英も慌てて後を追った。途中手をさしのべると、唇を尖らせながらも握り返してきた。

引き潮で波はおだやかだった。翠は磯の突端まで行き、しばらく黙って沖を見ていた。機嫌をおもんばかりながら貴英は、磯だまりで小魚の泳ぎをながめていた。

「さっきのことだけど」と不意に呼びかけられた。「私の言うとおりのことをしてくれたら、許してあげる」

許すもなにも無実なんだから、とおもいつつも、「どういうこと?」と顔を上げ、聞き返した。

「劇をしてほしいの」と翠は足元に目を落とした。「私がそこに立って、いいよと合図したら、貴英はそこで、愛してる、って言ってほしいの」

「えっ」

「だから劇よ。劇。変に誤解しないで」眉を険しくつり上げ、言いつくろった。

「そうだからって」

「やらないっていうの?」

「わかったよ」

翠は貴英からすこし離れて、また沖に遠目を投げた。何を考えているのか想像できなかった。ただ、さっきまでの翠が急に大人っぽく見えた。翠が合図するまで、さざ波が岩の間を何度も往復した。

「言ってみて……」

「アイシテル」意を決して口にしたが、照れて、ぎごちなくなった。

「もう一回」と翠は咎めず、うながした。

「うん……」貴英はこんどは、本当に劇をするつもりで、気持ちをこめて言い直した。「……愛してる」

静けさが翠を包んだ気がした。磯風が小さく翠の髪をなぶり、海はいくつもの塵のきらめきといくつもの砕ける陰りとで、ひそかだった。翠は耳を澄ませ、おそらく、言葉のひびきを漏らさず受け止めようとしていた。空とひとつに澄み透って、何かに出会おうとしていた。

しばらく経って、翠は言った。

「もう一回……」

磯へ降り、淡い茜色の巻貝を拾った。中をすすぎ、海の水をすくって、親指を蓋にして翠のもとへ戻った。ちょうど人のとぎれた枕元にあぐらで座った。顔の布をとり、とじこめてきた海を、ひとしずく唇に落とした。

からいじゃないの。

声が聞こえた。声は空へ抜け、森へ流れ、島のいずこへか吸い込まれていく。

あたりまえだ……。

貴英は笑ってうなずく。死化粧で生気のよみがえった翠を、きれいだとおもった。

END

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